案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2013年1月23日水曜日

オリンパスペンで撮った玉電砧線2

砧本村駅 1964.11.03   撮影: moro9さん  クリックで拡大

駅の向こうに「わかもと」の工場が見える懐かしい砧本村駅の風景、moro9さんに提供して戴きました。子供の頃に見た「わかもと」とはこの工場だったのだ。私が駅を撮った頃は「わかもと」の工場が眼中に無く工場があったのかどうかも記憶になし。電車のことしか頭になかったのでしょう。
わかもと製薬㈱玉川工場は1967年に工場跡地を駒澤大学に売却し、神奈川県大井町に相模大井工場を新設しています。

切符売り場がある終点砧本村駅 1964年2月

当時と現在の対比
ホームにあった待合所は90度向きを変えバス待合所に.2007.04.15

営業時間午前10時~午後6時と書かれた切符売り場の出札口.脇に貼られた
二子劇場の時代劇映画のポスターや、裏の洗濯物を干した民家がいかにもこの時代を表わす.

西日を浴びたホームの待合所

待合所はそっくりそのまま今もバス停に使われている. 2007.04.15

昔線路があったところを直進すると、その先にあった「わかもと」は駒澤大学玉川校舎グラウンドになっていた.

13 件のコメント:

Namiki さんのコメント...

そういえば、桜新町の電気屋さんI氏より、砧線の写真を
ここぞとばかり見せられたのも、はるか昔の話となりました。

路面電車よりもまずはSLであったのです。本当にフィルムを
けちって、それこそ枚数を計算しながら撮っていた身としては、
SL以外、まして路面電車などはまぶたに焼き付ける
だけの存在でしかなかったのです。

あの時代に戻って、やり直したい気分であります。

moro9 さんのコメント...

いや~砧本村駅界隈の変貌の様子、びっくりしました。
「十年一昔」といいますが、五昔も前の記録なので変わっていて当然ですが、
旧駅舎が位置を替えて、バスの待合所に使われているところが泣けてきます。
「ワカモト」の移転の件、参考になりました。1967年移転ですから、砧線最終年の
1969年には既に取り壊されて、平地になっていたわけです。謎が氷解しました。ありがとうございます。

katsu さんのコメント...

Namikiさん
桜新町のIさんをご存じでしたか!
この砧線を撮っていた1964年頃はIさんのお宅に頻繁に出入りするのがピークの時代でした。
3人が同じ高校出で大学時代には4人の鉄仲間が地方私鉄でIさんのお宅に出入りしていました。
旅行計画の前にまずは旅行資金のことで、アルバイトを探す打合せが多かったです。

katsu さんのコメント...

moro9さん
こうして待合所が保存されているのは大変嬉しいですね。
いつでも遠い昔の砧本村駅のことが偲べます。
「ワカモト」の工場の風景は何故か格別の印象があります。
今や玉川一帯は時代の先端ですね。

青蛙 さんのコメント...

桜新町のIさんの話が出てくるとは…。彼とは高校1年からの鉄仲間でしたから懐かしく思います。
Iさんとは玉川線や世田谷線にはよく行きました。砧線ものんびりとしてのどかな風景でしたね。廃線後も町田のTさんとkatsuさんと3人で出かけたこと、掲載の写真でまたひときわ砧線の情緒を反芻しています。

Namiki さんのコメント...

コクリコ坂のコメントでもそうでしたが、どうも妙なお騒がせ
をしてしまって毎度申し訳なく思っています。

Iさんというより、Iさんのお母様には本当にお世話に
なりました。ただ正直なところ、当時は豪快なババア(失礼)
って印象でしたが。

今は目がダメで模型をやっていませんが、当時、模型は
世界が狭くなるから若いうちは外に出ろと言ってくれたのが、
まだ当人も若かったころのIさんでした。

その後、やかんマークやなぜか車のエンスーとして
名をはせた諸先輩達と過ごせた時代は、自分にとって
精神的にとても豊かな財産となっております。

katsu さんのコメント...

青蛙さん
3人で行った砧線の廃線跡めぐりで撮った写真がやっと役立ちました。
2007年4月の撮影で何とあれから6年も過ぎようとしているんですね。
桜新町のI さんからはよく彼の玉電撮影の話を聞きました。玉電は彼のホームグラウンドでしたね。

katsu さんのコメント...

Namikiさん
恐れ入りました。
あの母上にお世話になったとは更に驚きです。
私も青蛙さんも皆あの母上には散々お世話になりました。
行くといつも夕飯を御馳走になってよく泊まったり。
桜新町のI さん宅はまるで「地方私鉄めぐり」活動の拠点のような場所でした。

Mamiki さんのコメント...

小生はI氏世代より少々年齢が下がりますから、一足早く大学生や社会人になった先輩たちの「車」での撮影に、いかに連れて行って
もらえるかは、旅費予算面からも大いなる課題でありました。

幸い、I氏ほかの皆さんには鼻タレ制服組でも大変親切していただきました。

やがてSLは地方ばかりとなり、いつの間にか日帰り撮影行は
地方私鉄やナロー中心へ変わったのでした。まさしく小生を、
曲がった道(笑)に誘い込んだわけです。

記憶は定かではありませんが、確かイタ車にも乗られて
いたかと思いますが、あれは良く故障するから絶対乗るとなと、
当時の友人先輩たちが申していたことを覚えいています。

Namiki さんのコメント...

ハンドル名を打ち間違えました。
悲しい加齢現象・・・

(いや、単に本人の性分という話も)

katsu さんのコメント...

Namikiさん
彼のイタ車のことよ~く覚えています。
随分維持費が掛ったようです。
社会人になって桜新町も遠のき私達の地方私鉄めぐりも終わった頃、彼は車にとりつかれたようです。
この頃に彼は車でよく撮りに行ってたのでしょう。
私もやっと国産中古車を持てるようになったのですが車で撮りに行くことは全くありませんでした。
学生時代に失ったレジャーの楽しみを取り戻すのに必死でした。

moro9 さんのコメント...

桜新町のIさんの母上には大変の世話になりました。
食事どころか、一泊の面倒までお掛けしました。
Iさんのイタ車で、上信電鉄、秩父鉄道、富士急行などなど
関東一円のロケに連れて行っていただきました。
一緒に海外の軽便鉄道(オーストリアやドイツ)に行くことが夢でしたが、
果たせませんでした。

katsu さんのコメント...

moro9さん
Iさんが車に熱を上げていた頃、イタ車で上信電鉄、秩父鉄道、富士急行などへ行っていたとは全く知りませんでした。