案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2013年1月22日火曜日

オリンパスペンで撮った玉電砧線1

私にとって砧線の思い出は吉沢駅から砧本村の区間であった。子供の頃に狛江から自転車をこいでここまで遊びに来た目的は、この区間を走る砧線を見ることと、もう一つは玉川読売飛行場を見る事であった。写真を撮り始めたのはずっと後であったが、オリンパスペンで撮った1964年は子供の頃に見た砧線沿線風景がそのまま残されていたと思われる。

吉沢の踏切 1964年2月
二子玉川園からやってきた電車は急カーブを曲がり多摩堤通りの踏切を渡ると吉沢駅に到着する。
まるで模型のレイアウトのような光景で、吉沢駅を出ると直ぐ野川の鉄橋を渡り右へ曲がる。

吉沢駅 1964年2月
吉沢駅の昔と今

2007.04.15
鉄橋の先を砧線と別れ土堤を越えると、今は河川敷に緑地運動場が開けるが、昔ここに玉川読売飛行場の格納庫と滑走路があった。自動車に牽引されて上昇するグライダーの練習風景や格納庫に新聞社のセスナの機体が並ぶ光景は正にこの場所であった。

別世界のような砧線沿線の玉川風景 1964年2月
1964年2月の撮影で場所は少し上流と思われ、この頃はまだ読売飛行場は存在し
砧線の吉沢~砧本村間はこんな長閑な土手の近くを走っていた。

何もない長閑な沿線風景の中を砧本村に到着する.

6 件のコメント:

moro9 さんのコメント...

オリペン片手にチャリでカメラハイク、さすが地元ですね。
砧本村の手前のショットは沿線一の田園ムードですね。
私も1964年11月に初めて砧線を訪ね、二子玉川から吉沢、砧本村と
カメラを向けましたが、多摩川堤までは足が伸びなかったです。ローカル線のような沿線ムードを楽しみました。
 砧本村の駅前には「わかもと」(製薬会社でしょうか?)の社屋が建っておりました。
ところが、5年後の1969年の再訪時には跡形もなくなっていました。いまだに不思議です。

Cedar さんのコメント...

吉沢のカーブ、私も撮影しました。あそこは玉電イチの急カーブで、連結運転のために京急の密連に変えてましたよね。

chitetsu さんのコメント...

砧線や多摩川土手付近の風景、今とは全く別物ですね。
すごく空が広い風景にじ〜んときてしまいます。

katsu さんのコメント...

moro9さん、
「わかもと」の工場はこの時代の砧線砧本村の象徴的な風景だったと思います。
子供の頃に見た工場の風景がぼんやりと記憶に残っています。
その後、電車に夢中になってしまい工場は眼中になく見落としてしまいました。
今では工場跡地が駒澤大学になっていますね。

katsu さんのコメント...

Cedarさん、
Cedarさんも撮られたこのカーブの写真。
ほぼ同位置で撮られたようでよく覚えています。
写真をみて寒々とした木立の風景等は当時の砧線の殺風景さそのものですね。
何も無い寒々とした玉川一帯が今ではお洒落な街になったものです。

katsu さんのコメント...

chitetsuさん、
この昭和30年代後半はまだまだこんな風景が各地に残っていました。
この時代の「空が広い風景」はこの後の急速な高度成長期で風景が一変してしまいましたね。
鉄道も全く同じで、この後 各地の地方私鉄では車両が一変してしまいました。