案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2025年12月1日月曜日

松尾鉱業鉄道


写真集(地方私鉄1960年代の回想)では使わなかった1枚。

東八幡平を発車して大更へ向かう客貨混合列車.
この先で松尾鉱山から流れ来る赤川を渡る.


2025年11月29日土曜日

鉄道模型アートマルシェ

6月と12月に開催のマルシェ、12月吉祥寺開催の予定が決まりました。

私は写真パネルだけで何も出しませんが会場に時々います。
今回の写真パネルは、7年前の写真展に出品した全倍(全紙の倍)サイズのお気に入り2点です。







昨年12月のマルシェ.


 

松尾鉱業鉄道 東八幡平

インフルエンザに罹り約半月間を無駄にしました。
米坂線の話を纏めている頃に発熱し、米坂線が中途半端に終わってしまいました。

元に戻ったので、停止していたブログも少しずつ始めたいと思います。

2年前のFB投稿から再掲

かつて八幡平の標高1000m前後に松尾鉱山の従業員家族が住む近代的都市があった。鉄筋コンクリート建物で水洗トイレ、スチーム暖房完備の雲上都市が形成され「雲上の楽園」とも呼ばれた。
この雲上都市から盛岡に出るのは随分時間が掛かったそうで、雲上都市からバスで東八幡平に下り、松尾鉱業鉄道で大更へ出て花輪線に乗換えて盛岡の街へ出る。
写真の1966年頃は閉山へ向かう衰退時期だったそうである。
松尾鉱業鉄道 1966年3月


早朝の東八幡平から望む東八幡平. 1966.3.2


保線区に使われていたマッチ箱の廃車体.
 元郵便荷物車 ユニフ1

松尾鉱業鉄道の終点東八幡平駅に雲上都市の住民がバスや車で下ってくる。雲上都市は遥か彼方雲の上なのだろう。

東八幡平を出た列車が大更に到着し、花輪線に乗換える乗客.

大更で花輪線に乗って盛岡に出る乗客の多くは雲上都市の住民と思われる。
ハチロクの花輪線撮影で最も気に入った1点です。


2025年11月16日日曜日

11月9日の週

毎年行事が集中する11月。
9日の週はSLの話題が続いた。

9日は会社OB会で宇都宮LRTと真岡線SL列車乗車。冷たい雨降る日だった。

11日に稲門鉄道研究会(早大OB)写真展へ。
その帰りに書泉グランデで究極の鉄道写真集「鉄道写真 広田尚敬」をしっかり拝見。
稲門写真展を伴にした友人(SLファン)と米坂線のことが話題になった。


真岡線SL列車.真岡


真岡キューロク館の美しい96.

稲門鉄道研究会(早大OB)写真展
SLが美しかった時代のモノクロ写真を拝見.

美しい96で思い出したのが63年前に西舞鶴で初めて見た96、そして米坂線の96.



私が初めて96を撮ったのは夕方の西舞鶴駅だった. 1962年夏

先日の稲門鉄道研究会写真展を伴にした友人(SLファン)と米坂線のことが話題になった。友人は米坂線を6回訪問し1971年秋が最後の訪問だったそうだ。
私が訪問したのも同じ1971年秋で、SLブーム到来の時代だったのか宇津峠越えでは三脚持ったファンをいたる所で見掛けた。ただ、この頃は96牽引の旅客列車は少なくなって米坂線の良き時代は終わっていたようだ。

米坂線1971年春

米坂線1971年秋

2025年11月7日金曜日

究極の鉄道写真集

 先日のパーティで広田先生から今度の写真集のパンフレットを頂戴しました。
ネットに数々紹介されている11月5日発売の写真集「広田尚敬 鉄道写真」5.5万円です。


昨日、書泉グランデに積まれていた本書の内容を見ましたが、写真の素晴らしさはもちろんですが、写真の配置、本の作り方などデザインが素晴らしい究極の写真集でした。
鉄道写真の神様で写真が素晴らしいのは当然ですが、素晴らしい作品を見事な本に仕上げた本造りのスタッフの凄さを感じます。

一方これとは対照的に、昔のネガに眠っていた画像をただ並べたような鉄道写真集が次から次と出版され、余りの乱発に鉄道写真集に興味を失いそう。

全く対照的な鉄道写真集を見せつけられた書泉グランデの店頭でした。




2025年11月3日月曜日

井笠鉄道 矢掛線

これまで井笠のカラーは、色の劣化でモノクロにしてアップしていましたが、始めてカラーでアップしてみます。
 

矢掛線が出ていた北川駅風景。1967.3.8



北川駅を発車し矢掛へ向かう矢掛線.1962.3.8

矢掛へ向かう沿線の民家.


備中小田

矢掛駅





右に小田川を見て矢掛に到着する.

2025年11月1日土曜日

栃尾線の名編成

語ることがいくらでもある1枚の写真。越後交通栃尾線の素晴らしい編成です。 



カマボコ客車+元都電杉並線+モハ211の珍編成.悠久山 撮影:田辺多知夫氏 1964.03.22 

後ろのカマボコ客車ホハ20は自社工場製で2両いた.
中間の客車が元都電杉並線のホハ11.
カマボコ客車の1両を改造して生まれた驚きの電車モハ211.

ホハ11  昭3年汽車会社製の元都電杉並線の電車を客車化したもので、妻面の窓が低いのが元路面電車らしい.アーチバー台車に交換など改装してすっかり軽便客車になりきっている。


元都電ホハ11の車内と台車.


2025年10月30日木曜日

鉄道写真展のお知らせ

今日からスタート、隔年恒例の鉄道アートサロン写真展。10/30~11/4まで 
素晴らしい作品の数々を観てきました。



会場風景。


今年もインド・アッサムの2フィーター蒸機に目が止まる。


私も1点、山形交通 尾花沢駅。
銀山温泉へ向かう客は奥羽本線大石田から尾花沢線に乗って尾花沢で銀山温泉行のバスに乗換えた。当時、銀山温泉行の山交バスは下記3路線で、奥羽本線大石田から銀山温泉行バスは出ていなかった。

・上山~銀山温泉

・山形~銀山温泉(山交に運転基準図あり)

・尾花沢~銀山温泉(山交に運転基準図あり)


2025年10月19日日曜日

広島駅前

鳥栖から大阪行夜行列車で熟睡し、広島で朝を迎えたのが1967年の春。
58年後の今、広島駅前は広電のルート新設変更が8月に開通し大きく変わった。駅前のこの在来ルートは、線路の撤去が進められているようだ。

広島駅前 1967.03.07




広島駅前.「こくてつバス」の看板が見える.

2025年10月14日火曜日

江ノ電 今昔

今と62年前の江ノ電. 

今の江ノ電、いい風景が撮れました。
また撮りに行きたい江ノ電。



インバウンドと今も現役で活躍する305編成. 
江ノ島駅  2025.10.10  


305編成  和田塚



62年前の305編成(305+355)
腰越 - 鎌倉高校前   1963.04.28



2025年10月3日金曜日

西大寺単端の完成品

先日の軽便祭りで展示されていたOナローの完成品。4.5万円
会場ではチラッと見ただけだったこの西大寺の単端キハ3。

翌日、写真を眺めていると、とても感じをよく捉えていてよく出来ている。
どうしても詳しく見たくなり、
北関東のお店(製造元)まで行ってきました。
1/48で車体主要サイズはスケール通りでした。

ペアーハンズ製のOナロー・シリーズ.



竜舞


2025年9月30日火曜日

先日の軽便祭りから

軽便祭で、素晴らしい西大寺単端のOナロー1/48の作品を拝見しました。
西大寺のキハ1、2を製作する方は大変少ないと思います。

「軽便讃歌13」表紙の巨大な単端キハ8と顔がよく似ていますが、
キハ1、2はお馴染みの箱型単端キハ3、4、5と同一サイズです。
 


表紙キハ8+キハ4+ハボ4両



キハ2


キハ1


2025年9月27日土曜日

軽便讃歌13の発売開始

昨年講演した講演録が明日9/28の軽便祭で発売開始されます。
講演と講演録では、皆様に多大なご協力を戴き誠にありがとうございました。

【南軽出版のアナウンスより】
南軽出版局の定番・『軽便讃歌』本は予定通り9/28軽便祭で発売開始、追って各特約店様(書泉、旭屋なんばCity、イモン、エコー等)にも配本いたします。書題は『軽便讃歌13』、内容は昨年の風間克美さんと名取紀之さんの講演録となります。
今回は価格が例年よりUPの税別1,300円となりますが、ひとえに怒濤の増頁(72p)によるものでして、そのぶん内容も濃密です!




2025年9月25日木曜日

筑波鉄道 筑波北方

美しいツートンカラーに塗られた気動車。筑波の峰々を背に走り抜ける風景は、あまりにも日常風景に溶け込みすぎて、かつて私はその魅力に気づくことがなかった。

駅舎の佇まい、ローカル色豊かな設備、そして茨城の素朴な風土と自然。
筑波鉄道は、暮らしのすぐそばにあった。
けれど、その魅力は何十年という歳月が流れて、初めて感じられるようになった。

鉄路はすでに消え、残されたのは駅のホームや木立の痕跡、自転車道に姿を変えた廃線跡など。筑波北方に広がる沿線の風情は、今も変わってないのだろう。



紫尾(しいお) - 酒寄  1987.3.28
真壁から筑波方面へ向かい常陸桃山を過ぎると、筑波山が背後に迫ってきて紫尾(しいお)に到着する。その先にあった木立や竹藪の脇をカーブする辺りが、最も好きな撮影ポイントであった。

2025年9月23日火曜日

雨上がりの金石街道(続)

 


入替作業が済むと貨物列車は中橋へ向けて走り出した.

金石線の画像をデジタル化したのは2011年頃でした。あれから10年後に再スキャンしたのがこの画像、ネガは劣化し斑点だらけで時間掛けてゴミとりしたものです。
1964年のモノクロネガは撮影後50年辺りまでは、まだ何も劣化してなく綺麗なネガだったことになります。


2025年9月11日木曜日

雨上がりの金石街道

1964年はマイカー時代幕開け直前で、地方の道路にまだクルマは少なかった。
北陸鉄道金石線 1964.12.31


金沢郊外の金石街道にクルマは殆ど走っていない.
12月の小雨に濡れた金石街道を、電車が貨車を連ねて進んでいく。濡れた路面に車輪の音が響き、パンタグラフが冬空をかすめる。その姿は、港と街を結ぶ暮らしの息づかいそのものだった。
やがてトラック輸送の時代が訪れ、この光景は消えていった。だが、雨にきらめく金石街道を行く貨物列車の記憶は今も鮮やかに残っている。

2025年9月8日月曜日

日本の社会の変わり目

クルマ社会の到来を掲載したのは10年以上前の2013年8月12日でした。
その時の「日本の社会の変わり目」の再編集版です。

この1964(昭和39)年の頃、大都市では既に車社会の到来が始まっていました。なんとか行き残ってきた地方私鉄もこの頃から急速に衰退して行く。この激変は一体何があったのか、私の中で漠然としていた高度成長時代の社会の変わり目と、地方私鉄の衰退を時系列に対比してみました。(軽便鉄道は地方私鉄衰退の事例として並べたものです)

これを見ると、私が地方私鉄を最も撮った時期1964(昭和39)年頃の日本は高度成長による社会の変わり目で、この年の東京オリンピック開催以降は高度成長のなかでも劇的な社会の変化で、車登録台数の急増や道路舗装率のデータからも爆発的な「車社会の到来」の時代であったと言えるでしょう。

地方へ撮影に出掛けた1962~1964年頃は大都市を除けば地方の道路はまだトラックやマイカーも少なく、地方私鉄には活気ある路線も見ることができました。それが1965(昭和40)年~に入ると沿線の道路整備も始まり車の姿が多くなってきて、それまでの地方私鉄の活気もあっという間に衰退→廃線へと向かったのでした。
1960年代の地方私鉄が様変わりして行く風景は、日本の社会の大きな変わり目に地方私鉄が翻弄されて行った時代であった。




1963年の新宿西口 青梅街道.


1967年第14回東京モーターショウ.
前年に続き展示された初代サニー1000
1966年にスタートしたマイカー時代は1967年秋の東京モーターショウで更に身近なものに.手の届かぬ存在のマイカーだったが、身近な人がすでにサニー1000を購入していた.

銀座4丁目の光景. 三越が改装中 1967.11.26
1966(昭和41)年に大衆車サニー、カローラが発売され、晴海で開催された東京モーターショーは大変な熱気であった。この銀座四丁目の晴海通りはそんなマイカーが身近な存在となってきた車社会到来の時代が思い起こされる。街行く人々に夢と希望が溢れ、昭和40年代の日本は経済大国への道をまっしぐらに進んでいた。


参考図書: 「高度成長-昭和が燃えたもう一つの戦争」 保阪正康 著 朝日新聞出版