案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2026年5月12日火曜日

梁川

 「梁川」福島交通軌道線 1966.12月

電車はりんご園の間を走り民家が増えてくると梁川に到着。梁川は寂しげな終着駅ではなくよくある終着駅だった。待合室の時刻表を見ると列車は1時間に1本、切符を買っている間に、電車は合図もなく発車してしまった。


終着駅 梁川 1966.12.31
(不鮮明なハーフ判カラー画像を鮮明化)


駅前風景
(モノクロ画像のカラー化)

2026年5月11日月曜日

さいわい橋

「さいわい橋」 福島交通軌道線  1966年

雪の川を渡る電車は、
年の瀬の光の中を走っていた。

山は遠く霞み、
木橋の匂いまで
冷たい風に混ざっていた。


使い物にならなかった不鮮明なハーフ判カラー画像がAIで蘇った。 
福島では「記憶にある色を求めて」の車体カラーの検証ではなく、あの時の清々しい空気感を優先したので、車体カラーが濃くなっています。


摺上川に架かる木橋「さいわい橋」 1966.12.31


私が見た軌道線の車体カラーは泥だらけでよく覚えていません。誌面情報、ネット情報には様々なカラー情報があり、青寄りも緑寄りもあります。私にはハッキリした記憶が無いので、福島では記憶にある車体カラーの検証ではなく写真の空気感を優先することにしました。
ハーフ判カラー画像からAIが出力した車体カラーのままで、Adobeで調整仕上げしたものです。

2026年5月9日土曜日

沼尻の正月

 「沼尻の正月」沼尻鉄道  1964年1月
やっと記憶にある沼尻の車体カラーとなった。
印刷物の色では満たされなかった感覚が、
PC上の微調整で初めて一致した時、強い感動になる。
今回、決め手になったのはカラーコードの指定であった。

(生成AIカラー化画像)


ありったけの客車をつなげた正月の列車。
川桁 1964.1.3


2026年5月8日金曜日

オリンパスペンで撮ったカラー画像が蘇る

今回は、単なる「モノクロの色付け」ではなく、オリンパスペンで撮った不明瞭なカラー画像を生成AIで鮮明化してみると、これは驚いた59年前の記憶の空気感まで戻ってくる。


島原城から見下ろした瓦屋根の街並み、遠くに広がる有明海、その向こうに浮かぶ熊本。
 1967.3.3

今回の調整は
・海を少し淡くしたこと
・彩度を抑えたこと
・コントラストを自分で追い込んだこと
この調整が昭和40年前後の島原らしい冬〜春先の空気感に効いたようだ。

小さなハーフ判画像の不鮮明な情報から、AIは“存在しないものを勝手に作る”だけではなく、カラー画像の鮮明化では、カラー画像の中に埋もれていた微細な色調や形を拾い直して「当時の記憶に近い形」で再構成していると思われる。

昔のハーフサイズ・ネガの画像は粒子も粗く、情報量も少ない。しかし逆にその曖昧さが「記憶の風景」と非常に相性が良いのかもしれない。

2026年5月6日水曜日

夕暮れ時の尾道

 「夕暮れ時の尾道」  尾道鉄道  1962年夏

山陽本線尾道駅のホームが帰宅客で賑わいはじめた夕方、駅の地下道を進むと、背後に山が迫る狭い一角に「尾道鉄道のりば」があり、小さな2面のホームに電車や客車が休んでいた。
(生成AIカラー化画像)



尾道の街に灯りが燈り始める頃、
電車は発車して行った.1962.7.30


2026年5月3日日曜日

夏の松本駅前

「夏の松本駅前」松本電鉄 浅間線 1963年7月

夜行列車で松本に着いたのは、まだ夜明け前のことだった。静まり返った駅前に立ち、これから始まる一日を思いながら歩き出す。

沿線をあちこち撮り歩き、再び駅前に戻ってきた頃には、夏の陽はすっかり高く昇り、街はもう昼の顔になっていた。古びた木造電車は、駅前の端にある小さな乗り場で客を乗せると、ゆっくりと動き出し、急カーブを曲がってメイン通りを浅間温泉へ向かって陽ざしの中を走り去って行った。
(生成AIカラー化画像)



夏の松本駅前   1963.7.20


カラー情報が豊富な路線は一発でAIカラー画像が生成される。↓

坂の途中の小さな踏切  玉電カラー 1965.7.27


松本の翌日に撮影した
アプト式の国鉄カラー。 1963.7.21

学校前の急カーブ

「学校前の急カーブ」松本電鉄 浅間線 1963年7月

砂利道の併用軌道を、埃を巻き上げながら木造電車がやって来る。
十分に速度を落とし、急カーブに差しかかると、
ギィギィと音を立てながら直角に曲がって、松本駅前へ向かっていった。

正面の高校では、生徒たちが大掃除に追われている。
明日から夏休みなのだろうか、
校舎のあちこちに、そんな気配が漂っていた。
(生成AIカラー化画像)


学校前 - 日の出町 1963.7.20


これまで「記憶にある色を求めて」で、昭和30年代の車両カラーを生成AIとのやり取りで詰めてきました。さらに車両の背景を含めた情景としての色あいも煮詰まってきましたので、写真+短文を1枚に仕上げてみました。

こんなシーナリーセクションを作ってみたい、けど私はこの1枚で十分です。
使ってきた生成AIは、ChatGPTの有料プランPlusです。


今回、私の記憶にある車体色で浅間線が定まってきたので、昭和30年代の沼尻、尾小屋、能登線などの車両カラーを更に詰めて行こうと考えています。

1970年代以降は車体カラーが誌面情報・ネット情報などで分かるのでカラー化した時の感動は薄く、美しいモノクロ写真を何でわざわざAIで酷いカラーにするの?? こんな疑問はよくあることだと思います。

ここで取上げて来たのはカラー情報が無くて車体カラーがよく分からない、また誌面情報で車体カラーが分っていても記憶とは何か違う、そんな昭和30年代から昭和40年代初頭までの車体カラーです。


2026年4月29日水曜日

記憶にある色を求めて 尾小屋DC121

昭和30年代の地方私鉄独特なカラーリングの中で、今回のカラー化は尾小屋、沼尻、松本浅間線などの奇妙で曖昧な色を出すことが主目的であった。この路線に限らず昭和30年代の地方私鉄の奇妙な色はその殆どが昭和40年代に塗り替えられて、消滅してしまった。

その一つ尾小屋DC121が赤系になる前の1962年に見た曖昧な色を、記憶とノートのメモを元にAIカラー化してみた。当時の色は紙媒体があったとしても仕上りにバラツキがあり正確な色の記録は無く、見た人各人の記憶にあるのみ。

FBに投稿したカラー化DC121を更に仕上げたのが今回です。



窓回りの緑がかったクリームが印象的であった
DC121  金平 1962.8.1


2026年4月26日日曜日

記憶にある色を求めて 北陸鉄道能登線

1962(昭和37)の北陸鉄道能登線も昭和30年代らしいカラーリングで、北陸鉄道の標準色(クリーム/朱色)になる以前は、こんな昭和30年代らしい色であった記憶がある。決して朱色の能登線ではなかった。

記憶の裏付けとなるカラー情報はネットや書物に見つからず、やっと見つけた訪問ノートのメモが裏付けとなった。窓下が北陸鉄道の朱色ではなく微妙なブルーであるのは間違いなかった。

窓下のブルーをもっと明るい水色に指定して再度AIカラー化をやってみた。
AIは昭和37年の能登線のカラーを知らない(ネットにカラー情報がない)ので何種類もブルーを試してみて、その中の1点を自分でトーン調整したのがこの1枚になった。ブルーをもう少し濃くしたいがAIは窓上クリームまで濃くしてしまうのでそれは無理であった。記憶に近い色の見本が無くて能登線も厄介な色ブルーであった。


撮影:1962.8.2

昭和37年 夏の能登.能登線のカラーリングが能登によく似合っていた時代、これが記憶に近い昭和30年代の車体カラーリングであった。


2026年4月25日土曜日

記憶にある色を求めて 常総筑波鉄道筑波線

 1962(昭37)年の筑波線のカラーリングは、正に昭和30年代らしい色だったが、奇妙な色ではなくオーソドックスなツートンだった。窓下が少し明るめの紺色で、決して派手さは無かった。

#9999さん、ご指摘ありがとうございます。
側面にある常総筑波の複雑な社章、AIでは読みとれず消しました。

撮影:1962.3.31


キハ401。真鍋


キハ305。真鍋


2026年4月20日月曜日

秩父鉄道 熊谷駅

 秩父鉄道と言えば熊谷駅構内で見た美しい電機たち。あの頃の貨物輸送にこんな魅力的な電機が活躍していた。それと秩父鉄道のホームの先にいた東武熊谷線の美しい気動車。

熊谷駅 撮影:1965.5.30


東武熊谷線の気動車はまだブタ鼻ヘッドライトに改造前で、ツートンカラー(クリーム/濃紺)に塗られた美しい気動車の時代があった。改造後の姿とは印象が全く違う。



クハ600形+デハ500形 と ED381     熊谷 1965.5.30

デキ3  1984年廃車

デキ7  1977年廃車
1925年(大正14年)、秩父セメント(当時)秩父工場の操業開始に合わせてイギリス・イングリッシュ・エレクトリック(デッカー)で製造されたデッキ付き箱形B-B機。同型車は東武鉄道(ED10形)にも存在した。


ED381  1988年廃車
日車1930年製で阪和電気鉄道ロコ1000形として製造され、国有化後1952年に改番されて国鉄ED38形電気機関車となり、1959年に秩父鉄道へ譲渡された。


2026年4月19日日曜日

秩父鉄道SL列車と、63年前のC58 363

先日、秩父鉄道SL(C58363)列車で熊谷から三峰口まで乗ってきました。 
会社OB達との旅は、毎度飲み食い主体の飲み鉄であり、改めてSLと西武特急ラビューを撮りに行きたくなる絶好の季節であった。それにしても新緑の野山が美しかったこと。

撮影:2026.4.18



新緑を背にSLを眺めて楽しそうな家族連れなど素敵な風景でした。撮影がスマホなのでデジタルズームでかなり無理をしています。




C58 363 三峰口



63年前の美しい現役時代 C58 363. 
仙台駅  1963.9.29 (AIカラー化)



仙台機関区

2026年4月16日木曜日

西大寺の色

 西大寺鉄道を模型化するならマルーンはこんな感じだったか。


ホハ3   1962年夏


2026年4月13日月曜日

Oナローの線路

昨日のイベントで見せてもらったOナロー(1/48)線路の作品。 
 
マイクロエンジニアリングのコード83(レール高2.1mm)(実物30kg相当)のスパイク打込み。実物で30kg相当は沼尻の太いレールくらいになるが、模型にすると沼尻より細く見える。Oナローの地方私鉄ではレールはコード83と70で十分か?  林鉄やトロッコでは更に細いコード55や40のレールか使われるようだ。





足元の線路で素晴らしい風景になる。

2026年4月8日水曜日

記憶にある色を求めて 沼尻鉄道

モノクロ写真の生成AIによるカラー化。
AI任せでは色が出ない昭和30年代の難解色の代表が尾小屋DC121、浅間線、沼尻。

沼尻のカラー写真の事例がネットに多々あるが、その多くは模型のカラー写真。
書物の印刷でイメージに近いのが機芸出版社「軽便探訪」の表紙くらいであった。
青でもない緑でもない、何とも言葉で表現できないのが沼尻の色であった。



青に寄り過ぎた青緑


カラコード「#24B5B5」をAIに指定、+微調整(彩度-30 色温度-10)
★記憶にあった緑を感じる青緑
 

電動バイクLUUPのブランドカラー


日産最新EVリーフのルミナスターコイズ


沼尻

青でもない緑でもない難解な沼尻カラーをカラーコードで生成AIに指定した。

2026年4月4日土曜日

記憶にある色を求めて 松本電鉄浅間線

刻々と進歩している生成AIによるカラー化。
試しに63年前の松本駅前の浅間線を生成AIカラー化してみた。

街並みの色に不自然さはないが、
浅間線のカラーリングがどうしても再現できなかった(1枚目)。

昭和30年代の地方私鉄カラーリングは独特で、特に浅間線のくすんだカラーリングの再現は最難関の部類と思われる。数年前まで松本市内を走っていた浅間電車カラーのバスもイメージが違っていた。

街並みの色に比べて、浅間線の色の情報が如何にネットにないかである。
ヒギンスさんの写真集にあった1枚の写真がの色が唯一近いと思われるがネットにはない。



AI任せでは再現できない浅間線のカラーリング。



2枚目は3枚目の色見本+プロンプト(細かな色合い指示)を指示して画像生成したもの。

3枚目は色あいを文章で指定し様々作成したうちの1枚で、おぼろげな記憶に残る色にほぼ合う色合い


美ヶ原高原の山並みを背に松本駅へ向かう.
当時の微妙な色にだいぶイメージが近づいた仕上り。当時の色は実車を見た人それぞれの脳裏に残る記憶のみ。

2026年3月30日月曜日

井笠ホハ10と三度目の出会い

写真は1年前の3月30日に関水本線(関水埼玉工場)で撮影した元井笠ホハ10。
西武山口線仕様34号として見事に復元された。

井笠ホハ10の経歴
①井笠鉄道での現役時代
②井笠鉄道廃線後、西武山口線で使用され、
 その後、西武遊園地でレストラン列車として使用される
③関水本線で山口線仕様34号(元井笠ホハ10)に復元

山口線仕様34号の復元で井笠ホハ10と三度目の出会いであった。


西武山口線34号の復元(元井笠ホハ10)
ダブルルーフ、平妻、雨樋位置、
でホハ10と分かる。2025.3.30


車内の木工仕上り.



西武山口線の終焉後、西武遊園地でレストランとして使用された元井笠のダブルルーフ客車4両。客車細部の相違点から元井笠は左からホハ5+ホハ10+ホハ2+ホハ6と推定される。 2011.4.29


井笠鉄道 現役時代のホハ10 1967.3.8

2026年2月26日木曜日

雨の耶馬渓

 大分交通 耶馬渓線  1967年春
耶馬渓を流れる山国川は、雨が降るとすぐに増水する。その川沿いを、耶馬渓線が走っていた。羅漢寺駅周辺は観光地として知られた土地だった。だがあの日は雨が楽しさを奪っていた。

耶馬渓に冷たい雨が降り、観光客の姿は見えない。増水した川辺に下り、雨に濡れながら一人列車を待った。何のために飲まず食わずでこんな辛いことをしているのか。学生だった私は、よくこんな問いかけを自分にすることがあった。

あれから40年余りが過ぎた頃、やっと苦労が報われる時代がやって来た。あの時に撮り歩いた蓄積は無駄ではなかった。



羅漢寺駅の向うにそそり立つ耶馬渓の奇岩.

青の洞門.


2026年2月1日日曜日

かつての新宿駅はこんなだった

古い写真を見ると、私の10~20歳頃の新宿駅はこんなだった。(先輩のアルバムから)
60~70年前の新宿駅がその後すっかり変貌し、更に今また変わりつつある。 


 小田急の地上ホームで、上は手前にある新宿駅南口に向かう通路。地下ホームも出来て、駅の上に出来た小田急百貨店は、今、取り壊されて再開発中。最も美しかった特急SE車(原形)だった。撮影は1957(S32)年7月以降


小田急のホーム脇で一段高い所にあった京王線の地上駅。駅は地下に潜り、駅の上に京王百貨店ができた。 1963.4.1 写真は地下駅が開業した日だった。


地上の京王新宿駅から甲州街道に出て来た京王線。京王新宿駅は地下に潜り、新宿駅南口がこれから大きく変わって行く。1963.3.20