案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2018年2月23日金曜日

加悦鉄道 大江山鉱山と小型蒸機(続)

加悦鉄道は過去に「大江山鉱山と小型蒸機」など何本かアップしましたが、小型蒸機についての続編です。
加悦鉄道が発着していたのが宮津線の丹後山田駅。今や丹後山田や加悦という駅名も別名になってしまい、当時のイメージが益々遠くなってしまった。

なんとC51が鈍行列車を弾いていた。宮津線の丹後山田駅に下りると片隅に加悦鉄道のりばが見える。 1962.7.31

国鉄宮津線丹後山田駅の片隅にある「加悦鉄道線のりば」で日本冶金工業㈱岩滝線の仕事をしていたのか、4号機が休んでいた。                    

丹後山田で発車を待つキハ15の運転台。

あっという間に到着する加悦の長閑な風景。

加悦機関区の4号機 川崎造船 大正12年製。
左側面を見ると。

加悦駅の古典客車。

 C160号機 昭和17年大江機械製作所製。日本冶金工業が購入し専用線に使われていたのを引き継いだ。

大江山を望む加悦の機関区に休む C160、1261、2号機。


夏草に埋もれて休車中の2号機。明治6年 英国スチーブンソン製 元国鉄No.123 加悦


加悦鉄道を終え移動する途中の舞鶴駅でみた国鉄蒸機96。
生きている現役蒸機の美しさ。

7 件のコメント:

ねこあたま さんのコメント...

別府鉄道とおなじく国鉄の貨物取り扱いがなくなる形でとどめを刺されましたね。
廃線後加悦駅に行きましたが、繊維産業が支えたガチャマン時代の痕跡が
残っている町でした。

katsu さんのコメント...

ねこあたまさん
今や加悦の街は与謝野町「ちりめん街道」ですね。
各種イベントがFBで盛んに入ってきます。
昭和37年の加悦はそんなイメージ全く感じませんでした。

ねこあたま さんのコメント...

舞鶴住んでいる友人がいます。彼の話ですが加悦鉄道は
加悦谷高校の通学利用でも使われたと聞いています。
交通の不便な京都北部は地域ごとに高校があることや、
長らく地域ごとの小学区制だったため、他の地域ほどでは
なかったでしょうが、高速道路もない時代中央から
切れる感から、反対運動があったとも聞いています。

katsu さんのコメント...


ねこあたまさん
どこの弱小路線も通学時間帯の列車は高校生で満杯で、
クルマ社会になる直前までよく見られた光景でした。
あの時代、東京の私鉄でも駅や電車に高校生が溢れ返っていました。
それが人口減のせいなのか、もうあんな活況は見られなくなりました。
遠い昔の日本に子供たちが多い活気ある時代があったんですね。

匿名 さんのコメント...

祖母が昭和30年代に丹後四辻の小学校で代用教員をしていました。
宮津からの通勤で丹後山田で乗り換えようとしたら気動車が満員で車内に入れず寒風吹きすさぶ真冬の加悦谷を外のバケットに乗って行ったそうです。
運用の都合でその日は客車列車でなく小さなキハ101が出ていたのかとも思いますがとにかく寒かったことを良く覚えているとのことでした。
今では宮津線改め宮豊線でもそんな混雑は無いようですね。

katsu さんのコメント...

匿名さん
遠い昔の貴重なお話ありがとうございました。
私が訪問した昭和37年は大型の気動車キハ15が入線した直後でした。
それ以前は客車列車や小さなキハ101が動いていたのですね。
小さなキハ101のバケットまで客が溢れる光景は、その時代を表す貴重な光景です。
大江山の梺、確かにバケットに乗った寒さは尋常ではなかったと思います。

以前は宮津線、丹後山田、丹後四辻、加悦など、駅名や線名が分かり易かったのですが、
今は細分化や改名されてサッパリ分からなくなりました。
昔ながらの宮津線はとても分かり易い線名です。
タンゴなどの呼び方は丹後のすばらしさ台無しの感がします。
加悦谷というのは知りませんでした、風情を感じる素晴らしい呼び方ですね。

つだ・なおき さんのコメント...

はじめまして。僕の母(84歳)が、加悦のちりめん屋さんで女中さんをしておりました。
休みの日に、天橋立まで遊びに行くのに加悦鉄道によく乗ったそうです。
鉄道誌の加悦鉄道の写真を見せると、懐かしいと喜んでました。
後年、家族旅行で天橋立に遊んだおり、加悦鉄道で加悦のちりめん屋さんを訪ねました。
加悦は静かな街でしたね。現在はどうなってるでしょうか。
でも、加悦鉄道にキハ09は違和感アリアリでしたね・・