案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2018年2月18日日曜日

昭和38年 南武線

LUNさんからのコメントに、この時代の南武線の写真もあったらよろしくお願いします!
と、ありましたので昭和38年の南武線をアップしてみます。
といっても南武線、私はこげ茶色の旧型国電を全く撮ってなく、南武線といえば登戸の蒸機や浜川崎の1枚くらいでした。


2012年6月の記事→ 小田急向ヶ丘遊園駅と南武線連絡線。


南武線との乗換駅 小田急の登戸駅。下に南武線の架線が見える。1963年2月  
こんな長閑な多摩川の川辺も今では一変していることでしょう。

南武線のC12。 登戸~宿河原

登戸から川崎方面へ向かう貨物。この頃、隣の向ヶ丘遊園駅前からナローのおとぎ列車が走っていた。

南武線浜川崎駅。ここから鶴見線に乗って川崎・鶴見地区の専用線蒸機探索に向かった。

工場専用線の蒸機が至るところで動いていた川崎・鶴見地区。日本鋼管

5 件のコメント:

にぶろく さんのコメント...

すごい写真ありがとうございます。
登戸の多摩川堤を毎週ジョギングしてます。
もう全く面影はないですね。
登戸駅でC12が入換しているなんて
信じられません。
この当時であれば、小田急との連絡線とか
宿河原から多摩川への砂利専用線とか
健在だったのでは?

katsu さんのコメント...

にぶろくさん
この頃、もう使われていなかったと思われる
小田急との連絡線が残っていました。
2012年アップした記事のリンクを貼っておきました。

にぶろく さんのコメント...

おおっ、写真を撮っておられたのですね。
目の保養になりました。

狂電関人 さんのコメント...

Katsuさま

かつて、電関人幼少の頃北九州工業地帯はその排煙で薄墨色に空は霞み、
若戸大橋の朱は黒く沈んで見えるほどでしたが、
それが我々のGNP(GDP)を下支えしてくれましたね!

真っ黒(蒸機は当たり前ですが)なか細い動力車たちが全国の工場の片隅で、
ちょこまかちょこまかと行ったり来たりが電関人の工場のヤードの原風景です。
90年初頭、かの四日市コンビナートの鬼のような引込線の中を忙しそうに動く、
風景に間に合いました。。。
できれば、石原産業のB6の現役の勇姿を拝みたかったです!

katsu さんのコメント...

狂電関人さん
四日市コンビナートでは90年初頭まで専用線の真っ黒なものが動いていましたか。
石原産業で動いていたB6は昔から有名でしたが、訪問することは叶いませんでした。
B6はけっこうあちこちで動いていたようです。
昭和30年代まで川崎・鶴見では産業用蒸機以外にクラウス、ポータ、ピーコックなどが動いていました。