案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2018年2月16日金曜日

続) 昭和42年春 長崎の街に昭和の風景が

2014年7月の記事
昭和42年春 長崎の街に昭和の風景が溢れていた頃 にアップした2枚の写真。

この1枚は、前方右手に教会風の建物が見え一体どこからこの写真を撮ったのか? そのままなっていて、すっかり忘れていた写真。先日「右手の教会風建物」は浦上天主堂です、のコメントを戴き、建物を照合してみると確かに浦上天主堂の建物でした。

であれば、この写真、大浦天主堂辺りの高台から撮ったものではなく、こんな近くに浦上天主堂が見える場所は大浦天主堂とは全く別の場所であることが判明。
当日の行動記録を読んでみると、石橋あたりで長崎電軌を撮ったのち、長崎駅に戻り「市内めぐりバス」に乗っている。バスのコースは長崎駅→大浦天主堂→グラバー邸→唐人館→市内抜けて→文化会館→平和祈念像とあった。大浦 浦上天主堂のすぐ近くに来ていたのだった。

前回の記事のキャプションはこんなであった↓     長崎の街 1967.03.02
撮影場所が不明だが、たぶん大浦天主堂あたりの高台からか? 右手の教会風建物などから撮影位置を割り出してみる楽しみがある。(カメラのレンズは45mm)

Googleアースで原爆資料館から浦上天主堂の方向を見る。

浦上天主堂の角度と背後の山並みから、写真の撮影場所は長崎原爆資料館でしょう。

浦上天主堂を拡大してみると。


そして同じところからもう一枚の画像。

上の写真の部分拡大。ここは爆心地公園であった。
2枚の写真は意図があって撮った筈だが、50年前の記憶は完全に消えていた。

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