案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2012年2月1日水曜日

玉電 引込線があった駅

玉電の用賀駅には現在の田園都市線の用賀からは想像もつかない光景があった。
駅にはちょっとした引込線があり路面電車の単調な駅に変化を与えていた。
この頃の路面電車の存在は人々の生活に密着していたのでしょう。


右に引込線が分岐し、ホームへ延びた線路は子供達の遊び場に.1969.4.22  画像クリックで拡大 


用賀の駅を出て左にカーブし大山街道を玉電瀬田へ向かう.  1965.7.27

桜新町を過ぎ専用軌道区間の坂を下ると用賀に到着する 1969.4.22
左に側線が見える

夏の日の用賀駅 1965.7.27

5 件のコメント:

Cedar さんのコメント...

用賀の引込み線の横には映画館→時々実演(●●リップです)をやっていた劇場があって、近所の悪がきどもの憧れの場所(!)だったらしいです。よく見ると古い町並みが残っている用賀ですが、いつまでのことやら~

katsu さんのコメント...

Cedarさん
玉電のこの一帯はCedarさんに縁が深い土地のようですね。今までにブログでよく拝見しています。玉電があった頃、沿線の世田谷では子供達がのびのびと育ったことでしょう。
玉電が消えた後は道路網整備で沿線の良さは全て消えてしまったような気がします。

anaasio さんのコメント...

線路で遊ぶ少年・・左側は私のような気がします。昭和39-44年、用賀の駅前、瀬田交差点から見てY字路(右玉電、左旧道?)手前の左側の板金屋さんの隣のアパートに住んでいました(板金屋さんの更にY字路寄りは交番で今も同じ位置のようです)。アパートの前には膝下程度の大きな石が道路側に置いてありました(20年位までは石は残っていました)。父親が好調の時は○谷工務店という看板も出していました。スーパー富士やOKの前形は当時からありました。玉電の線路には、兄さん格の友達と5円玉とかを仕掛て遊だり、駅前のコロッケ屋(10円!)でおやつとか、今の大きなビル(設計アーキテクト5)の辺りで戦争ごっことか・・

katsu さんのコメント...

anaasioさん
コメントありがとうございました。
えっ! あの時の子供達からのコメントが。
驚きのコメントを嬉しく読ませて頂きました。
コメントから当時の街の様子、子供達の遊びの様子が目に浮かんできます。
あの時に出会った見ず知らずの少年とこうして43年後にネットで再会できるとは何とも言えぬものを感じます。
こういう方にに出会えると古い時代の記録をブログにして良かったと思います。

昭和青春 さんのコメント...

いきなりのご連絡申し訳ございません。
BS-TBSで「関口宏の風に吹かれて」という番組を制作しております三浦と申します。

この度番組の中で昭和時代の二子玉川付近のお写真を探しておりまして、

「鉄橋を過ぎ吉沢駅を出て踏切の先を右へカーブすると直線区間に入る。吉沢 - 中耕地」のお写真を拝見させていただきました。

番組の中で是非このお写真を使用させていただきたく考えているのですが、可能でしょうか?

そして、大変こちらの勝手なのですが、使用可能な場合、編集作業を11月9日金曜日に行うため下記のアドレスへご返事いただけないでしょうか?


三浦 us5_maria_maria@yahoo.co.jp

ご多忙中とは思いますがご確認、ご検討のほどよろしくお願い致します。


BS-TBS「関口宏の風に吹かれて」
三浦