案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2019年5月31日金曜日

碓氷峠のアプト式撮影会4

印象に残るのは最後に撮影会一行と別れて訪問した横川機関区で、前もって黒岩保美氏から国鉄へ撮影許可の段取りをして戴き、機関区内を自由に撮らせてもらえた事であった。総勢28両もの特殊機関車ED42が集結した横川機関区の光景は圧巻で峠越えの艦隊基地であった。こんなED42の壮観な光景も終焉を迎えていた。

撮影:1963年7月21日
ED42が集結した横川機関区も最後の日々を迎えた。

奥に休む新型電機と機関区の人々。

数えきれないほどのED42群が休む壮観な光景。


ラック台車、そしてスコッチヨークで駆動される粘着台車。




2019年5月11日土曜日

1枚の写真から 奥羽本線新庄駅

facebookに投稿したこの写真、奥羽本線の新庄駅で陸羽東線 陸羽西線の2両の気動車(キハユニ16?)が到着したところです。facebookでは1枚の写真の裏にある陸羽東線の旅の話など書く場ではないのでブログでこの時の日誌を紐解いてみます。

昭和39年夏
終日曇天で落ち込んでいた仙北鉄道の撮影を終えた翌朝、相変わらず曇天の瀬峰を出発し国鉄を乗継いで尾花沢線が出ている大石田に向かった。この時はクリアな写真も天候次第と陽が出てこない空ばかり気にしていた移動であった。

陸羽東線 陸羽西線が奥羽本線の新庄に到着 1964.08.05

上の写真の部分拡大

東北本線小牛田での乗換えで、新庄行き陸羽東線は1時間ほど待ってやっと女川発の気動車がやってきた。超満員であったが大部分の客は降りてしまい席は楽にとれた。隣に白衣で杖をもった人が座ったがどうやら信仰の出羽三山へ行くようである。
広く続く田んぼをしばらく走ったあと急勾配を登ると山奥の鳴子についた。天気が悪くてガスをかぶった山々がかすんでいる。鳴子の駅で車内まで鳴子温泉の硫黄の匂いがしてきたのには驚いた。鳴子で2両を切り離し2両になった気動車は更に勾配を登り県境の峠を越えて下り坂となると一路新庄に向かった。
平地が開けてくると前方の空が青く見えどうやら晴れているようだ。いやな雨雲は次第に遠のき待望の陽が差し込んできた時には堪らず歓喜。夏の強い日差しがギラギラ車内に入り込んできた9時3分 新庄に到着。新庄の空は雲もない青空でガンガン照りであった。

大石田に向かう準急まで時間があったので、新庄の駅前通りを歩くと土蔵造りの酒屋など昔からの佇まいを残していた。フードを買いにカメラ屋に寄ると応対に出てきた店員のメガネが余りにもよく似合っていて、こういう女性をメガネ美人というのだろう。
山形交通尾花沢線が出ている大石田までは新庄から準急に乗って20分ほどであった。




2019年5月10日金曜日

西武山口線の軽便最盛期

西武山口線で最も軽便の雰囲気を楽しめたのはこの2両のコッペルと井笠の木造客車が揃った時期ではないでしょうか。木造客車は最後まで走ったがこの2両のコッペルは頸城鉄道と井笠鉄道に戻ってしまった。画像は大サイズにした再掲です。

1972(昭47)年06月03日 頸城鉄道2号機「謙信号」の運行開始しその後井笠鉄道1号機も入線
1973(昭48)年07月05日 井笠鉄道からの木造客車が配属開始
1977(昭52)年09月23日 頸城と井笠の蒸機に代え元台湾糖業公司の蒸機5型2両の運行開始

軽便最盛期の時期とは1973(昭48)年7月~1977(昭52)年9月の約4年間ということに。

入線2年後の井笠鉄道1号機 西武遊園地 1975.06.01

 ユネスコ村  
井笠1号機が牽く井笠のダブルルーフ木造客車は夢のような列車だった.
軽便蒸機列車は子供達にどんな思い出を残したのでしょうか.

井笠鉄道1号機

頸城鉄道2号機と井笠鉄道1号機の列車交換

頸城鉄道2号機

朝顔カプラーの連結作業