案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2017年11月17日金曜日

下電の観光コース

バスが走る道路、下津井電鉄の路線、鷲羽山の関係はこんなになります。瀬戸大橋は開通前でまだ記載されていません。


創立75周年記念乗車券にあった周遊コースがこれでした。
どちらも船から瀬戸大橋見物を組み込んだもので、Aコースには下津井電鉄の下津井~鷲羽山までの乗車が組み込まれ、Bコースには電車の乗車がなく地上は全てバス移動でした。


瀬戸大橋開通後もこんなコースが存在したとするとメリーベル号の活躍はほんの一部ということに。そして岡山、倉敷からはJR開通により便利なJRで児島へやって来て、JR児島駅から離れた下電の児島バスセンターには寄らずJR児島駅からバスで鷲羽山めぐりや、大橋クルーズを楽しんで岡山へ帰るか、大橋を渡って四国へ渡るかで、下津井電鉄が投資した観光路線などには目もくれなかったことが想像されます。
大橋開通後、観光路線の起点である児島バスセンターに倉敷、岡山からの客を呼び込めなかったのが、下電バスもろとも観光路線が衰退してしまった大きな要因だったのでしょう。

鷲羽山からの瀬戸大橋展望。 1988.4.9

瀬戸大橋開通の日 1988.4.10
本四備讃線開通であっという間の坂出。

 
瀬戸大橋開通の日の坂出駅。

2017年11月15日水曜日

下津井電鉄 創立75周年記念乗車券

探し物をしていたらこんなものが出てきました。1988年4月の瀬戸大橋開通前日に購入したようです。この記念乗車券は1986年頃に発売されたようで、記念乗車券の写真は白塗りモハ103型でまだメリーベル号は登場前だったのでしょう。この乗車券の袋に「鷲羽山と瀬戸内海クルーズ号」という2つの観光コースが表示されていました。鷲羽山と瀬戸大橋(架橋工事中)見物を組み合わせた観光コースで、この後、観光路線化が完成後もこんなコースがあったと想像されます。次回、この観光コースを紹介してみます。

創立70周年とセットになった創立75周年記念乗車券


2017年11月8日水曜日

金沢市内線の異端児

街並みでスタートした「金沢の街」の写真にコメント戴き、1枚目の写真からいろんなことが浮かび上がってきました。
電車の背後に写った街並みに今も残っている建物があること。あの区間が金沢駅前のループ単線区間であったこと。行先表示が金沢駅到着前に寺町行に変えられていたこと。そして元琴平参宮鉄道の電車を改造した金沢市内線では異端児の電車であったこと。
こんな元琴平参宮の電車と金沢の街並みの組合わせは僅か3年あまりで終わってしまった。

金沢の街並みを行くモハ2062(元琴平参宮電鉄)  1964.12.31

1963年(昭和38年)に廃止された琴平参宮電鉄からデハ81と83を譲り受け、狭い道幅に適合させるために車体を切り詰めるなど原型をとどめない大改造が行われて翌1964年使用開始。市内線廃止後はモハ2051とともに福井鉄道へ譲渡されてモハ511, 512となっていたが、同じく1969年(昭和44年)に廃車されている。wikipediaより


モハ2061(元琴平参宮電鉄)  撮影:田辺氏 1964.10.05 

モハ2062(元琴平参宮電鉄)   撮影:田辺氏 1964.10.05 


こちらも異色のモハ2051(元武蔵中央電気鉄道→北鉄金石線→金沢市内線)
撮影:田辺氏 1964.10.05 

2017年11月4日土曜日

久しぶりの多摩湖線

最近、一眼レフやミラーレスの出番は全くなく、撮影はもっぱらアイホンです。
アイホンは54年前に使ったオリンパスペンによく似た使い勝手のよさです。きっちり計算して狙った鉄道写真ではなく、時代を記録する写真では望遠ズームも不要で、広角気味で連写抜群のアイホンがぴったり、連写を除けばオリンパスペンと同じ感覚です。今ではなく何十年か経って真価が出る鉄道写真は時代の記録でしょう。ぶらっと多摩湖線一橋学園を用ついでに撮ってみました。

青梅街道-一橋学園 2017.11.3

夕闇迫る地上駅。一橋学園

 構内踏切がある駅の改札口を出ると、街の灯が一段と賑やかになる。

夜のとばりが落ち始めた地上駅。