おはようございます。まだまだ営業中だった時代の雄別炭鉱はいいですね!現役時代の軍艦島のようで、活気があって生き生きしていますね。びわこスタイルのキハを客車に改造した混合列車は面白そうですね。今ではここは地図からも消滅し、幽霊の目撃談の多発する北海道中で5本の指に入るほどの恐ろしい心霊スポットになったそうです。因みにケイタイの電波も届かず、一度入ったら出られなくなるという話も聞きます。かつて活気があった町だったゆえ、こんな現状は悲しいですね。
宵闇さんいつも何でも詳しいですね。私は北海道のことは何も知りません。かって栄えた雄別は今や心霊スポットですか。このシリーズでは古典機と当時の雰囲気が少しでもわかるような写真を選定しています。私もそうですが車両周辺は中々撮らないものです。全国各地、当時の風景が今になってこんなに貴重になるとは思いもよりませんでした。
ナハ17の上に石炭搬出用の架空索道が写っていますね。道路が発達していなかった時代には、山間の地域と平野部を結ぶ、1次産業製品の搬出や生活物資を運び上げる架空索道が各地にありました。水田地帯を横切って山麓へと続く赤錆びた鉄塔は子供のころの懐かしい風景です。今でもあの物悲しいカラカラカラという音が聞こえてきそうです。70年代にネパールを旅行した際には、生活物資用の架空索道をよく目にしました。国内では唯一日立セメントの大平田鉱山の石灰石輸送に今でも使われているようです。
#9999さんこの種の索道は炭鉱や鉱山が栄えたある時代の象徴ですね。鉱山鉄道の沼尻や尾小屋にもありました。よく廃坑跡の写真で索道の痕跡が写っていたりしますが、現在でもこれが使われているとは驚きです。
架空索道はズリ運搬用です。選炭場から下辛川対岸のズリ山(九州ではボタ山)へ延びていました。雄別の機関車は8722が釧路製作所、C1165が釧路市阿寒、C111が江別市に保存されています。
ooyubari9201 さん、架空索道のご指摘ありがとうございます。北海道の「ズリ山」、九州地域の「ボタ山」の使い分けは知りませんでした。ちなみに常磐地域では「ズリ」と呼んでいた様ですね。
鉄道ピクトリアル「私鉄車両めぐり」とダブる点も少なくないと思われますが、僭越ながらコメントさせていただきます。コハ1は長州鉄道→買収→芸備鉄道→再買収→雄別鉄道と転じました。原型は軽便並みに小さいオープンデッキ車体で、雄別鉄道では先ず通常サイズのセミオープンデッキ車体に載せ替えた後に写真にあるような切妻車体になりました。再買収された車両の中には常総筑波鉄道に譲渡されたものがあり、こちらは原形のまま昭和30年代初め頃まで筑波線にいました。また、長門鉄道が同形車を開業時に導入し昭和31年の路線廃止まで残りました。コハ2は東急7200系のように一段引込めた貫通扉が印象的です。昭和35~37年頃に妻窓を埋めて側窓に縦桟入れる改造が行われたようです。なぜ物資不足だった終戦後のような縦桟入り窓にしたのかは謎です。北海道鉄道キハ501形は、びわこ型流線形気動車のうち1067mmでは唯一の一段窓でした。もう一両のキハ502も客車化され弘南鉄道→常総筑波鉄道ホハフ201となりました。筑波線時代の姿が以前こちらのブログで紹介されていました。
三等急電さん客車の詳細なる経緯をありがとうございました。写真にあった、びわこ型元北海道鉄道キハ501と同形のキハ502が常総筑波鉄道のホハフ201であったとは知りませんでした。びわこ型客車は筑波鉄道でよく見かけ、何だこれは!と思ったものです。雄別の客車には長州鉄道、北海道鉄道とさまざまな歴史ある遍歴があったのですね。他の客車の遍歴もたいへんなものだったと思います。
C111ですが日本鉄道保存協会の発表によると今年度に東武博物館に譲渡されるという発表がありました。東武にはc11207がいるので重連運転に期待します。
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9 件のコメント:
おはようございます。
まだまだ営業中だった時代の雄別炭鉱はいいですね!
現役時代の軍艦島のようで、活気があって生き生きしていますね。
びわこスタイルのキハを客車に改造した混合列車は面白そうですね。
今ではここは地図からも消滅し、幽霊の目撃談の多発する北海道中で5本の指に入るほどの恐ろしい心霊スポットになったそうです。因みにケイタイの電波も届かず、一度入ったら出られなくなるという話も聞きます。
かつて活気があった町だったゆえ、こんな現状は悲しいですね。
宵闇さん
いつも何でも詳しいですね。
私は北海道のことは何も知りません。
かって栄えた雄別は今や心霊スポットですか。
このシリーズでは古典機と当時の雰囲気が少しでもわかるような写真を選定しています。
私もそうですが車両周辺は中々撮らないものです。
全国各地、当時の風景が今になってこんなに貴重になるとは思いもよりませんでした。
ナハ17の上に石炭搬出用の架空索道が写っていますね。
道路が発達していなかった時代には、山間の地域と平野部を結ぶ、
1次産業製品の搬出や生活物資を運び上げる架空索道が各地にありました。
水田地帯を横切って山麓へと続く赤錆びた鉄塔は子供のころの懐かしい風景です。
今でもあの物悲しいカラカラカラという音が聞こえてきそうです。
70年代にネパールを旅行した際には、生活物資用の架空索道をよく目にしました。
国内では唯一日立セメントの大平田鉱山の石灰石輸送に今でも使われているようです。
#9999さん
この種の索道は炭鉱や鉱山が栄えたある時代の象徴ですね。
鉱山鉄道の沼尻や尾小屋にもありました。
よく廃坑跡の写真で索道の痕跡が写っていたりしますが、
現在でもこれが使われているとは驚きです。
架空索道はズリ運搬用です。選炭場から下辛川対岸のズリ山(九州ではボタ山)へ延びていました。
雄別の機関車は8722が釧路製作所、C1165が釧路市阿寒、C111が江別市に保存されています。
ooyubari9201 さん、架空索道のご指摘ありがとうございます。
北海道の「ズリ山」、九州地域の「ボタ山」の使い分けは知りませんでした。
ちなみに常磐地域では「ズリ」と呼んでいた様ですね。
鉄道ピクトリアル「私鉄車両めぐり」とダブる点も少なくないと思われますが、僭越ながらコメントさせていただきます。
コハ1は長州鉄道→買収→芸備鉄道→再買収→雄別鉄道と転じました。
原型は軽便並みに小さいオープンデッキ車体で、雄別鉄道では先ず通常サイズのセミオープンデッキ車体に載せ替えた後に写真にあるような切妻車体になりました。
再買収された車両の中には常総筑波鉄道に譲渡されたものがあり、こちらは原形のまま昭和30年代初め頃まで筑波線にいました。
また、長門鉄道が同形車を開業時に導入し昭和31年の路線廃止まで残りました。
コハ2は東急7200系のように一段引込めた貫通扉が印象的です。
昭和35~37年頃に妻窓を埋めて側窓に縦桟入れる改造が行われたようです。
なぜ物資不足だった終戦後のような縦桟入り窓にしたのかは謎です。
北海道鉄道キハ501形は、びわこ型流線形気動車のうち1067mmでは唯一の一段窓でした。
もう一両のキハ502も客車化され弘南鉄道→常総筑波鉄道ホハフ201となりました。
筑波線時代の姿が以前こちらのブログで紹介されていました。
三等急電さん
客車の詳細なる経緯をありがとうございました。
写真にあった、びわこ型元北海道鉄道キハ501と同形のキハ502が常総筑波鉄道のホハフ201であったとは知りませんでした。びわこ型客車は筑波鉄道でよく見かけ、何だこれは!と思ったものです。
雄別の客車には長州鉄道、北海道鉄道とさまざまな歴史ある遍歴があったのですね。
他の客車の遍歴もたいへんなものだったと思います。
C111ですが日本鉄道保存協会の発表によると今年度に東武博物館に譲渡されるという発表がありました。東武にはc11207がいるので重連運転に期待します。
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