北陸本線金沢駅の片隅から金石街道に沿って日本海へ向かって走る金石線の昭和39年12月時点を紹介してありますが、田辺さんが撮った昭和38年7月はたった1年半前なのに結構違いがあるようです。
一見昭和39年とおなじような風景でもよく見ると、電車や電機がまだポール時代で、ひなびた客車は電車に牽引されてまだ活躍していました。この1年半後には客車牽引はなくなりポールからパンタに交換され、寄せ集め車両の淘汰があったなど、この昭和30年代後半は僅かな期間でいかに地方私鉄が変化して行ったかが分かります。
何だこれは! の世界が急速に消えていった時代だったのでしょう。
撮影:1963.07.12 田辺多知夫
中橋を発車したモハ1831+サハ521
まだ活躍していたサハ552+サハ551 中橋
2軸駆動のEB電機(EB301)の背後に写った金沢の裏町風景 中橋
ポール電車モハ1831 中橋
浅野川線から転籍してきた異タイプのポール電車モハ1601 中橋の車庫
この後小松線へ転じてトレーラとなる.
中橋のモハ3351. この頃の排障器もやがてなくなる.
北陸本線金沢駅の風景
北陸本線金沢駅構内.金石線中橋駅への連絡線が左手に延びていた.
終点大野港の金石線新造車モハ3301とサハ551
一番奥に留置されているのはサハ600形(元名古屋市電) 単車サハ701
一番奥に留置されているのは
15 件のコメント:
ノーシル・ノーヘッダーなのにポール集電の新車とくたびれた木造車の編成が素敵です。と言うか、今や「ノーシル・ノーヘッダー」なんて死語ですね。
なとさん
今や使わない死後「ノーシル・ノーヘッダ」そういえばそうですね。
「ノーシル・ノーヘッダ」で登場した新車の頭上がポールで、
素性の判らないくたびれた木造客車を牽引している。
こんな車両の組み合わせを今の時代に見るととても新鮮で楽しいですね。
今は無きこんな時代の素敵な光景はどれもこれも模型に見えてしまいます。
模型で再現するとしたらテーマは限りなくあるでしょうね。
尾灯が付いたロータリー車は初めて見ました。ロータリー側には連結器が無いので、この様にして回送していたのですね。写真の簡易連結器の様なものを付けたロータリー車をたまに見かけますが、強度的におぼつかない感じですね。エアホース?の位置も別な意味で「何だこれは!」で、この姿シャコを連想しました。
このエアホースと簡易連結器は、マックレー車・キ900との連結用でした。
「キマロキ」編成は、「キマ」の後追いで「ロキ+緩急車」で除雪するのが一般的のようで、ロータリー車には基本的に連結器は必要なかったのでしょうね。
私の早とちり、本題とは関係のないコメントで失礼いたしました。
金石線もCedarが間に合わなかった線区でした。
路肩軌道を行く近代車+古典車の編成は魅力的だし、起点中橋のロケーションも魅力的ですね。
この頃の1年の違いは大きかった。
昭和37年粟津線の廃止、くたに号
翌年のしらしぎ号の入線で玉突きで
雑多なサハは無くなり私も見ていません。
この線も沿線に引き込み線があって中橋の
狭いヤードに貨車が一杯いました。
その中橋付近も区画整理事業が行われ跡形も
ありません。粟津線の画像がありましたら
是非見たいです。
#9999さん
国鉄SLファンにはよく知られている雪掻車の「キマロキ」編成も悲しいかな私にはさっぱり判りません。
この写真で後部にテンダーみたいなものが連結?されていてどんな組合わせなんでしょうか。
この姿はシャコを連想するは、言い当てていて面白いですね。
Cedarさん
金沢では確かに金石線が面白い路線ですね。
ある時代まではその他の路線も凄い世界だったようです。
私も間に合いませんでしが、かろうじて小松線だけは昭和37年に尾小屋のついでに立ち寄りました。
もう一度マンガの世界をアップしたいと思っています。
もし昭和37年に北陸私鉄各線を撮り歩いたら大変な収穫になったでしょう。
いつも楽しませていただいています。
本稿にラベルが付いていないのですが、後で探すとき大変なので付けておいていただけますでしょうか。
常夜灯さん
北陸鉄道の粟津線は私も間に合いませんでした。
当時粟津線などは情報もなくその存在すら知りませんでした。
粟津線の宇和野駅の単行電車の風景なんて夢のような世界です。
知らない世界ゆえに夢が膨らんでしまうのですね。
この時代の1年の違い、今回の弊ブログでは正にこの短期間の変貌がテーマでした。
何でこの時代の風景だけが衝撃的に感じられるのか不思議です。
OZUさん
ご指摘ありがとうございます。
今回、ラベルはわざと外してあります。
しばらくしてから北陸鉄道 金石線のラベルをつけます。
外してある理由は、本記事から過去記事にラベル名でリンクさせてあるので、
今だけはリンクで飛んだ串刺し過去記事に本記事を出さないようにするためです。
ご理解下さい。
いや〜…。
サハを中心にして雑多な旧型車が淘汰された後の北陸鉄道も、どうしてなかなかゲテモノ揃いで、やっぱり「なんだこれは?」の世界を変わりはないような気がします^_^。
粟津線の画像というのは本当に少ないようですね。
鉄ピク誌2001年の通巻701号の記事中に、宇和野駅に入る1800型の画像があるのと、粟津線廃止時の記念切符の温泉駅と1800型、郷土出版社の本での那谷寺駅の写真などが、数少ない資料ですね。
もしも画像があるのなら、私も是非見せていただきたいです!
加南線の旧塗装は、W.Higgins氏の写真集に鮮明に載っていますね。
まだトロリー線1本・構内配線改良前の河南駅に、サハを牽いて入る1811のクリーム色と茶色のツートン、あれが粟津線時代のカラーでした。
「キマロキ」は、機関車+マックレー車+ロータリー車+機関車で、ラッセル車が線路脇に掻き寄せた雪を、マックレー車で線路中央に集め、ロータリー車が遠くへ吹き飛ばすために出動します。
従来は「キマ」と「ロキ」は別出動でしたが、追突事故防止のための苦肉の策として、ロータリー車にマックレー車と連結するためのドローバーが取り付けられました。
実際はキマ編成をロキ編成が後追いする画像が殆どで、「キマ」「ロキ」の方が一般的だったようです。
ロータリー車は回転翼用の蒸気機関を備え、炭水車を従えています。車体カバーを取り去ると中身は殆ど蒸気機関車です。
>この時代の1年の違い・・・ 何でこの時代の風景だけが衝撃的に感じられるのか不思議です。
いろいろな方の写真を拝見し、東京オリンピック辺りを境に、なにか空気そのものが変ってしまったような気がします。
esehokuさん
ゲテモノぶりのインパクトは見る人の年齢や好みにより様々ではないでしょうか。
私にとって北陸鉄道は淘汰された雑多な旧型車が特にインパクトが強く宝の山に見えてしまいます。
北陸鉄道で不要になったたらい回し車両の掃き溜めのような小松線が凄かったですが、
すぐに平凡な路線になってしまいましたね。
粟津線の画像はやはり少なかったですか。
私もほんとうに写真を見てみたいです。
#9999さん
「キマロキ」の詳細な解説をありがとうこざいました。
いや~お恥ずかしい私は何も知りませんでした。
いかに雪の中の国鉄SLを撮りに行っていないかです。
昭和30年代の後半はちょうど東京オリンピック1964開催があって、
オリンピック以降の昭和40年代はそれまでが様々変わってしまった感じですね。
都電でも昭和30年代の衝撃的な風景は昭和40年代に入ると当たり前の風景になってしまった。
時間差あれど日本中がこんな感じで変わったのでしょう。
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