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高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2013年6月4日火曜日

玉電大橋車庫の電車1

前回の玉電風景 大橋」で大橋車庫を取上げましたが、1962年に大橋車庫で撮った車両写真を整理してみました。

1962年12月に車庫を訪問した目的は玉川電気鉄道時代からの古参電車デハ30形、40形を撮ることであった。車庫には西日を浴びて様々な車両が居たが、200形タルゴは無視してしまったのか全く写っていなかった。車両がひしめき合った車庫で車両全景を撮るのは容易ではなかった。
車両写真のことより車庫の佇まいを沢山撮っておけば50年後の今楽しめたのに、まだ車両しか頭にない頃で残念なことをしてしまった。ところで、この大橋車庫のネガはビネガーシンドロームの発生が最もひどい1本で何とかスキャンしたが、数年後のネガは更にひどい状況となって、とてもスキャンどころではないでしょう。

30形(31)   60形(65)  40形(50)が顔を揃えた大橋車庫 1962.12.07

最も古いデハ30形(31)

デハ30形(33)

デハ30形(33)

33の車内

デハ40形(45)

デハ40形(49)

デハ40形(52) 40形でこれだけ二段上昇窓でないのは元35→52へ改番による.

6 件のコメント:

Cedar さんのコメント...

今や高速のインターや高層ビルになってしまったあの場所が、電車の車庫だったことを知る人も少なくなりましたね。
玉電廃止後、構内にあった変電所の建物が撮影スタジオになっていて、そこで仕事したことがあります=なんてのも懐かしい思い出です。

katsu さんのコメント...

Cedarさん
廃線後、変電所がそんな使われ方をしたのですか。
今では影もカタチもなし、大橋ジャンクションで全てが消えましたね。
50年前の車庫で撮った写真の背景を懸命に見たのですが何にも写し込まれていませんでした。
車庫にはいろんな施設があって興味深い風景であったと思います。

chitetsu さんのコメント...

その大橋ジャンクションに絡んだ仕事に関わったことがあります。
その時は、その場所がたまでんの車庫とは気づきませんでした。
Katsuさんのネガはいつ頃からどのぐらいビネガーシンドロームに罹患されているのですか?
私は今のところ被災していませんが、戦々恐々としています。

katsu さんのコメント...

chitetsuさんもお仕事でここにご縁があったのですか。今ではどこにどう車庫があったのかなんて全く判りませんね。
私の最も古いネガは1962年です。1962年でもカールしているのとしてないのがあります。
1963年から行きつけの写真屋さんで殆どを現像していますが、それは全く臭いも発生せず全てが正常です。それ以外の店に出したものは1970年代でも発生しているので、どうも年代よりも現像所の水洗処理の良否に掛っているような気がします。

伊豆之国 さんのコメント...

私の幼少時代には「玉電」最古参となっていた30型。その現役時代の写真を見ると、あの唸りを上げて精一杯加速して行く釣り掛けモーターの音と共に、その頃の懐かしき思い出が胸の奥に蘇ってきます。確か34号だったか、玉川線が消える少し前に二子玉川園の中に「零戦」(?)と共に展示されていたのを見たことがあるのですが、いつの間にか跡形もなく消えたようでした。
その玉電30型と同世代の阪堺電車の160型は、80歳を過ぎた今もバリバリの現役だそうで、東西の鉄道会社の違いによる車両の扱いや感性の違いが見えるような気もします。

katsu さんのコメント...

伊豆之国さん
34号は二子玉川園に保存されその後解体となったようですね。
30形や40形は保存して欲しかったものです。
私は玉電でこれらが最も好きなタイプでした。