ネット美術館の京都写真美術館 アーカイブスで見た
安達 浩作品「瞽女 盲目の旅芸人」のモノクロ写真 約80点。
https://kyoto-muse.jp/exhibition/16783
https://kyoto-muse.jp/exhibition/16783
1973年5月、新潟県長岡市、ようやく木々の緑が濃くなり始めたのどかな峠の山道を、三味線を背負って一列になって下って行くその姿に、私はなつかしに似た不思議な感動を覚えた。わが国で最後まで門付けをしていた「長岡瞽女」と呼ばれた彼女たち 家々の戸口に立って三味線を弾いて唄う。迎える村の人々とは、もう長いなじみである。 解説文より
80点の写真を見ながらこの解説文にあった長岡と1973年に目が留まった。
私が長岡から出ていた栃尾線を訪問したのはこの10年前1963(昭和38)年であった。その10年後の1973(昭和48)年といえば、もはや急速に近代化が進みつつある日本であった。
こんな1973(昭和48)年の日本にこのような「盲目の旅芸人」が存在していたことに驚いた。
1963(昭和38)年の上見附風景が格別に味わい深く見えたのは、まだまだ近代化の波が押寄せる前の日本だったせいだろう。せめて駅周辺の民家や商店でも撮っていたら貴重な風景が記録できただろうに。 ディスカバージャパンの時代の10年前であった。
撮影:1963(昭和38)年3月
どこにでもあった道路の水たまり、上見附駅前の大きな水たまり。
時代を感じさせる駅や周辺の建物。
古びた貨物ホームと周辺の民家。
駅の側線に待機中の車両。
8 件のコメント:
いや、懐かしいです。
上見附駅と越後交通のバスの営業所が、別だったころですね。
最近、行ってみましたが、当時の面影は、まったくなくなって負いました。
栃鉄を廃線まで、利用した私には、栃鉄記事が、身近に感じられます。
また、楽しみにしております。
匿名さん
栃鉄を廃線まで利用された方からコメントを戴けるとは大変に嬉しいです。
越後交通のバスの営業所のことは私には全くわかりませんが、
当時の上見附駅前には何も無かったような気がします。
駅には「タクシー料金は現金で頂戴する」との看板が掲示され
ここからタクシーが足だったのでしょうか。
栃鉄は車両や施設の近代化に大変力を入れて進めていたにも拘わらず、
一気に消滅してしまったことに悲しい想いがします。
栃尾線のお写真も素晴らしいですが、冒頭の長岡瞽女の記述に目が行きました。学生時代に斉藤真一さんの画集「めくら瞽女の唄」や、彼の絵がタイトルバックに使われた映画「津軽じょんがら節」などに惹かれていたものです。昭和40年前半くらいまでは「表日本」「裏日本」という対比が残っていました。
Cedarさん、こういう絵の世界に詳しいのですね。
斎藤真一を調べてみると、津軽三味線の音色に惹かれ、東北地方を旅するうち瞽女を知り、その後、越後一帯の数多くの瞽女の足跡を記録し、それに基づいて瞽女の心象世界を描き続けた孤高の画家。とありました。独特の世界の独特の絵なんですね。
私は絵のことは分かりませんが音楽の歴史の中で東北や沖縄の「旅回り芸人」に関心をもったものです。
ここは電化ナローだったので行きたかったけど、行けずじまいになってしまいました。今もそうですが、上越国境を越えるのは実際以上の距離感があり、なかなか足が向きません。
母親がまだ実家の栃尾線の駅の有る加津保にいたころ、良く瞽女の一団が来たという話をして
いました。戦前の娯楽の少ない時代とて、子供たちが[ゴゼンボが来た!」と後を付いて回っ
たそうです。
見附の話もよく聞きました。懐かしいお話と写真有難うございました。
モハメイドペーパーさん
昔は長岡、新潟方面に行くには夜行列車の朝到着で確かに距離感がありましが
今では新幹線で2時間たらず、昔の距離感はすっかり消えてしまったのではないでしょうか。
それでも私もなかなか足が向きません。
toshiさん
以前、加津保の昔のお話しをコメントして下さった方だったと思います。
そうでしたか、やはり瞽女の話がありましたか。ゴゼンボといわれたのですか。
今回、ネット写真館にある長岡瞽女の写真は戦後の1973年と最後の時代だったと思います。
たぶんこの写真の風景は戦前と同じだったと推定します。
本ブログ記事の初めにネット写真館のアドレスをリンクしておきました。
80枚の写真が見れますので良かったら見て下さい。
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