海獺さんから大橋についてのコメントを戴きましたので、4年前にアップした「玉電風景 大橋」の写真を大きくして再び取り上げてみました。
精肉店と薬屋(資生堂の看板)があった大橋車庫の入口は、今や巨大な大橋ジャンクションに。1969(昭44)年の大橋は246号線が広々としていて空が広かった。
大橋車庫
1962.12.07 この跡地に大橋ジャンクションが建設された.
大橋の商店街風景をよ~く見ると精肉・鮮魚店の脇に電車が顔を出している.大橋車庫の入出庫線であった.鮮魚店と薬屋(資生堂の看板)の間から電車が出てくる.まばゆい太陽の光がさんさんと降り注ぐ。 1969.04.22
海獺 さんのコメントによると、大橋車庫の入出庫線があったのはこの辺りのようです.2013年1月
目黒川沿いの立て看板にあった大橋界隈の地図.2013年1月
道路を横断し商店街の間を大橋車庫へ入って行くデハ200形.
広々とした大橋停留場.
「連結2人のり」が表示された連結運転車. 大橋停留場
大橋停留場の向こう高台の木立の中に氷川神社が見える.
大橋側から渋谷方面を見る.遠くに見える大坂上の陸橋まで坂を登る.大橋-上通り
10 件のコメント:
今となっては何とも懐かしい、大橋車庫の光景をありがとうございます。空を覆いつくす高速道路(首都高3号線)や、巨大な大橋ジャンクションがそびえ立つ現状からは、とても想像はつきません。かつてここら一帯が、玉電こと東急玉川線全車両の基地でした。さらに玉川電気軌道の社紋が残る、変電所(600V)などの電力区もありました。入口は商店に挟まれて狭かったのですが、その奥行きと広がりは相当なものでした。
ここ大橋車庫には角ばった30・40形から、ややスマートな60・70形。突如ヨーロッパスタイルになった80形や、ペコちゃんこと200形。さらにはステンレス車まがいの、コルゲート付ながら吊掛電車だった150形まで揃っていました。今思えばこれらの個性的な車両たちの保守点検は、とてつもなく大変な作業だった事でしょう。しかし職員の方々は、玉電という歴史と伝統のある職場に、誇りと愛着を持っていたようです。
こんな素晴らしい「別世界」が、東京の目黒区や世田谷区に広がっていたという事実を、ぜひ次の世代の方々にも知っていただきたいと思います。その意味からも、大変に素晴らしい企画をアップしていただき、誠にありがとうございました。これからもぜひ、ワクワクする更新のアップを期待しております。
玉電大橋駅界隈の風景というと、当時あったいくつかの店の名がいくつか思い浮かんできます。「丸井」があったこと、呉服の千歳屋、桜鍋の店、車庫の入り口には化粧品店があったような記憶があります。渋谷方面に向かって登って行く急坂「大坂」からの眺め、坂上には合掌造りの郷土料理「ふるさと」があって格好のランドマークだったのですが、いつの間にか消えていて、喪失感、虚脱感を覚えたのでした。その近くにはチェーン店の高級ホテル「石亭」があったのですが、駅から遠くて不便だったせいなのか、平成の初めごろには既に店じまいしていたようでした。その反対側には「新舞子」という旅館があったことも記憶しています。
匿名さん
大橋車庫にまつわるお話をありがとうございました。これまでに大橋車庫や街について多くの方からコメントで情報をいただいて来ました。大橋には様々な思い出を持った人が多いのですね。
私は大橋には縁がなかったですが数年前に初めて工事中の大橋ジャンクションを見てあまりの街の変貌にただただ驚きました。今、写真で昔の車庫を見ると確かに別世界ですね。
車庫を撮っておいてよかったと思います。
伊豆之国さん
私は当時の商店のことは、車庫入出庫線の鮮魚店や薬屋くらいしか知りません。
昔の写真を元に私が現地で確認できたのは氷川神社くらいでした。
この地にご縁あった伊豆之国さんならいろいろ発見できるかも知れませんね。
遅コメ失礼します。
大橋車庫には2度入ッたことがあります。一度目は廃止直前に電車撮り、2度目はバスの車庫時代、元の玉電変電所の建物がなんと撮影スタジオになっていて、そこでCM撮影でした。ちょっとしゃれた外観の高い天井の建物でしたね。
Cedarさん
大橋車庫の奥の方で撮った電車の背景に背の高い奇妙な建物が写っていました。
あれが変電所なのですね。
撮影スタジオとは意外な使い道があったものですね。
貴重な玉電遺産と思いますがその後の大橋ジャクションで跡かたもないのでしょう。
遠い懐かしの大橋車庫。追伸となりますが、実は私の高校時代の同級生の女生徒のお父さんが、大橋電車区の区長をされていました。この女生徒は私に好意を寄せてくれ、私の鉄道趣味を理解してくれていました。そして自分の父親の職業を打明けてくれたのです。ところが彼女は私の好みではなく、たびたび「私が案内してあげるから…」というお誘いを受けながらも、ついつい遠慮をしてしまいました。今思えば、あの時彼女にお願いしておけば、大橋車庫のもっと奥の奥まで見られたのにと反省することしきりです。
人生は思いがけないことでチャンスに巡り合います。しかしそれを生かせるかどうかは、自分自身の心がけ次第なのです。もしあの時、彼女のニキビ顔やミニスカートからの太い脚に我慢をしていたら。今頃は私の部屋の片隅には、玉電の貴重な部品類がいくつも転がっていたかもしれません。あるいは家内も別人だったかもしれません。子供たちも、もっと早く生まれて、もっと早く成人になっていたのかもしれません。
玉電にも大橋車庫にも、心残りや後悔がいっぱいあります。それでもこのHPにたびたびアップしていただいた事で、心が晴れた思いが致します。これからも素晴らしい記事のアップを、よろしくお願い申し上げます。
匿名さん
大橋電車区にまつわる楽しいお話をありがとうございました。
私も国鉄SL機関区で似たような思い出があります。
もしあの時に、人生の分かれ道は様々あって不思議なものですね。
大橋電車区はその後のあまりの変貌ぶりにセンチメンタルな大橋物語が輝いて聞こえます。
車庫内の日常を写真に納めていたらよい写真集ができたでしょうね。
大橋電車区から本線への線路の状態がとてもよく分かります!
バス車庫時代しか知らないのですが
ここに出来た高層マンションに入った大橋図書館に毎週通って
往時を懐かしんでいます
この時代の南武線の写真もあったらよろしくお願いします!
(私鉄ではありませんが)
LUNさん
この時代の南武線、本日アップしてみました。
ただし、電車ではなく蒸機ですが。
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