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高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2015年6月10日水曜日

日光軌道線 1枚の写真から1

2013年7月にアップしました山岳路面電車5にあった1枚の写真↓(上)についてkakさんからコメントを戴きました。この廃線跡は下河原駅から公会堂駅へ向かっていた旧線の跡ではないかと。
確かに左手の川の土手、軌道線のカーブ、背後の山並み、遠くに見える木立や大きな三角屋根の建屋などが写真↓(下)下河原の風景と似ているところがいろいろあります。ここは下河原にあった旧線の跡かもしれません、そうだとすると2枚の写真と見比べ4年半であまりにも変わった風景に驚かされます。

工場が遠くに見える廃線跡のレール  1963.7.14   撮影:青蛙氏

廃線間近の下河原駅    1967.12.21  撮影:田辺氏
下河原駅全体

7 件のコメント:

kak さんのコメント...

取り上げて頂き誠に有難うございます。
貨物列車が勾配のある路面を下りて来る写真は、とても珍しく、日光軌道ならではの写真ですね。
これとは別に、日光駅の貨物連絡線がどの様な配線で国鉄と繋がっていたか、資料や画像を色々と探していますが、これは今のところ見当たりません。

katsu さんのコメント...

kakさん
写真の謎解きは正解不明でいろいろ調べている時が楽しいものですね。
山岳路面電車日光軌道線を走る貨物列車は愉快な風景です。
街中を行く貨物列車と日光駅で国鉄とつながる貨物線の経路を取り上げてみようと思います。

tachikawa さんのコメント...

いつも興味深く拝見しています。

1957年に撮影された日光軌道線のこの場所の写真が、J.W. Higginsさんの『発掘カラー写真昭和30年代鉄道原風景 路面電車編』の46-47ページに掲載されています。この写真には、1967年の写真でED611のパンタグラフ越しに見える建物がちょうど建設中なのと、1963年の写真の遠景に見える三角屋根の建物の両方が写っています。
1963年と67年の間に軌道と川の間の部分の道路が拡幅されて歩道も設置され、欄干の位置が変わったので風景が一変してしまったように思います。

katsu さんのコメント...

tachikawa さん
コメントありがとうございました。
早速この本を確認してみたいと思っています。
工場引き込み線跡と思っていた1枚目の写真は下河原に間違いないようです。
1枚目の写真(1963年)を撮った位置が旧線分岐点に近く、道路沿い右手の建物が
入ってなかったのですが1963年にはこれらの建物はできていた事になりますね。

旧線が分岐していたY字路にかたまった建物は、1963年には全く姿無かったのですが
その後の道路改修で一気に建てられたのでしょう。
それにしてもこの4年ちょっとでよくここまで変貌したものですね。
日本各地の道路が急速に変貌し始めていた時代だったのでしょう。

katsu さんのコメント...

tachikawa さん
J.W. Higginsさんの『発掘カラー写真昭和30年代鉄道原風景 路面電車編』を見ました。
確かにここに掲載された1957年撮影の写真で背後に工事中のビルが写ってますね。
当然ながら1963年に撮った道路端を走る線路と道路などが同じでした。

ここは下河原であると判明すると、今度は線路跡があった旧線のことがとても気になります。
この先の公会堂駅へ向けてクランク状に進む軌道を国鉄貨車の列車はどうやって進んだのか?
昭和19年に開始された国鉄貨車の乗り入れと元アプトED電機の入線に当たり下河原~公会堂間が新経路になったのでしょう。

宵闇 さんのコメント...

もし日光軌道線が廃止にならず、今でも存在していたらどんな路線になっていたのかと思う時があります。
恐らくLRT車両が導入されて路面電車で日光の観光名所を巡る旅なんてツアーが東武鉄道で企画されていたのかなあ~なんて思ってしまいます。

katsu さんのコメント...

宵闇さん
私もよくそのことを思います。
今では貨物列車はありえないでしょうが観光の足として日光名物として路面電車は受けると思います。
東照宮あたりの観光なら路面電車が便利だし路面電車そのものが人気出ると思います。
日光軌道線が廃止になる頃、廃止賛成の理由として電車もオンボロだし貨物列車が通るのは観光都市としてふさわしくない、なんて意見があったそうです。今では価値観が大きく変わりましたね。