案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2014年11月23日日曜日

世田谷区弦巻 昭和30年代

バス停「弦巻3丁目」桜新町から弦巻営業所へ向かうバス. ボンネットバス、非舗装路、コンクリート製ゴミ箱、まばらな住宅が時代を象徴する。

世田谷区弦巻。
昭和37から昭和41年にかけて鉄仲間と地方私鉄訪問の旅プランを練るのに集まったたまり場、それがこの写真のバス停を降りたところのお宅であった。この写真が撮影されたのはおそらく昭和30年代前半と思われる。

この交差点から少し離れたところに当時から住む友人(非鉄)が懐かしいバス停「弦巻3丁目」の写真を持っているというので当時の生活風景の写真含めて提供いただいた。

世田谷もまだのどかでバス通りから少し入ると畑が広がり空が広い。
こんな東京の風景も地方の風景も同じようで日本中どこも長閑な時代であった。

さんさんと陽を浴びて洗濯物を干す先に畑が広がる

風呂場の煙突の先にバス道路沿いに建つ平屋の住宅.遠くに駒沢給水塔が見える.風呂付の1軒家はまだ贅沢な時代だったのでしょう

正月に羽根つきで遊ぶ.周辺には竹やぶや畑が拡がる


弦巻3丁目の看板にあった「眞中パン」の話題。
世田谷で子供の頃を過ごした人にとって「眞中パン」は紅梅キャラメルと同じような子供時代の懐かしい存在ではないでしょうか。
聞いた話によると、小さなパン屋だった眞中パンが用賀に大きなパン工場(パン屋さん組合?)を建て、事業拡大したが10年持たずに消えたそうで、存在したのは紅梅キャラメルと同様に僅かな期間だったようです。

用賀に建てた大きなパン工場とは馬事公苑と大山街道の間にあった旧陸軍衛生材料廠跡地(後の厚生省東京衛生試験所)の脇にあったそうです。

13 件のコメント:

Cedar さんのコメント...

つい最近まで桜新町に住んでたので、この写真の辺りは図書館通いでよく通りました。目黒〜都立大学〜桜新町〜弦巻営業所のバスもよく利用してました。
写真の当時は渋谷駅始発だったと思います。
右端に写っている酒屋さんは今もあると思います。
左側の角店のパン屋さんの看板が面白いです。センターの「と」を挟んで斜め十字に読むのは難しいです。
真中パンというのも地元っぽいです。
しかし、Chitetsuさんともども認証が面倒過ぎます!

katsu さんのコメント...

Cedarさん
コメントの認証のご指摘ありがとうございました。
ログアウトして見てみると確かにありますね、知らぬ間に認証が表示されているのを初めて知りました。
以前からコメントでの文字認証は外してあるので、私のにそんなことは無いと思っていました。
再度コメントの設定で文字認証を外したにも拘わらず認証がどうしても消えません。
Bloggerの改善までしばらく様子みさせてください。

katsu さんのコメント...

Cedarさん
これは驚き!! なんとこの図書館通りをよく通っていたのですか。
この界隈は私鉄ファンが多いみたいですね。
昭和42年以降は私鉄めぐりは行かなくなったけど10年くらいはよくここへ行っていました。

伊豆之国 さんのコメント...

懐かしい土地なので、思い出話を書かせていただきます。
20代前半まで駒澤界隈で過ごした私にとっては、弦巻はすぐお隣の町でした。玉電の駅から離れていることもあり、通ることは余り多くなかったのですが、その頃はまだ雑木林や草むらになっていた空き地も多く、格好の子供の遊び場になっていて、まだまだのどかな郊外風景も残っていたような気がします。その弦巻町内の東端に当たる、駒澤中学校の西側の一角は、樹木の多いお屋敷町になっていて、民家や風景画で知られた向井潤吉画伯のアトリエは、往時の姿を残したまま美術館として整備され、私も何度か「里帰り」のついでに訪れています。
駒澤の給水塔は、玉電の新町の電停から少し入ったところにあって、やはり付近一帯には緑の多い住宅街になっていましたが、給水塔の敷地の中には普段入れなかったこともあり、そんな貴重な建物だったとは最近まで知りませんでした。弦巻の中心には、「蛇崩(じゃくずれ)川」というおどろおどろしい名の川が流れていて、当時はまさに「どぶ川」といった状態でしたが、今では暗渠になって、遊歩道や公園として整備されているようです。
「真中パン」というのは私は知りませんでしたが、今の「駒澤大学」駅のある辺りには、「玉電」の真中の電停があり、「真中食品」という小さなスーパーがありましたが、数年前に行ったときにはなくなっていました。交差点やバス停の名として残っていた「真中」の名も、「駒澤大学駅前」と名を変え、「真中」と言う地名はほぼ完全消滅してしまいました。

katsu さんのコメント...

伊豆乃国さん
懐かしい世田谷の思い出話をありがとうございました。
玉電が走っていた頃の世田谷から、高速道や地下玉川線が走る世田谷へ、時代の流れで世田谷の風情も大きく変わりましたね。
私は知りませんでしたが「真中パン」にはいろいろ逸話があるようですね。
電停にあった「真中」の駅名は消えても今でも店名などに「真中」を残しているようです。

YamaChan さんのコメント...

皆さま、こんばんは。
去年3月初めの「玉電風景」の書き込み以来になります。
懐かしいお写真を拝見し、またまた出て参りました。
弦巻3丁目交差点、TQバスの後方500mほど進むと「玉電」が走っていた玉川通りの旧道に出ますネ。
その途中には、お写真でも下っているのが分かりますが、蛇崩(じゃくずれ)川の支流が流れていました。
また左方向に400mほど進むと、我が母校の中学校があります。
そして右方向に向うと、「馬事公苑」への抜け道がありました。
お写真の後方には、「松丘(まつがおか)小学校」の真ん前にTQバスの「弦巻営業所」がありました。
この界隈には中学校の友達の家々が何軒もありました。
中でも、Sさんと云う女の子が住んでいた広い農家に遊びに行ったことを思い出します。
丁度お写真の右奥方向に直ぐでしたね。広い畑は今ではマンションにでもなっている事でしょう。
「眞中パン」も「銀バス」のTQボンバスも懐かしいです。横腹に「TKK」のロゴが大きく書かれていました。
「駒沢配水塔」は、地元では「水道部」という呼び名で通っていました。我が家から200mほど北側にあり、家からも良く見えてました。
以前も書いたと思いますが、我が家の最寄りは、「玉電」の「新町1丁目」電停でした。
そうそう、「駒沢配水塔」ではあの「少年ジェット」の撮影(ロケ)が行われたんですよ。その撮影風景をリアルに見ていました。小学校の3・4年生ぐらいだったと思います。
「ブラックデビル」も少年ジェットの愛犬「シェーン」も少年ジェット役の「タケシくん」も見ましたよ。
「ブラックデビル」はあの「配水塔」の上の渡り廊下?で杖を振り回していました。
少年ジェットが『ウ~ヤ~タァ~ーーー』って叫んでいましたっけ。
当時「駒沢配水塔」の敷地内は立ち入り禁止でしたが、地元の悪ガキ達は内緒で遊び場としてチョクチョク入っていましたが、
特にお咎めは無かったですね、だって中学の知り合いも社宅に住んでいましたからね。

キリが無いのでこの辺でやめておきます。
いつも長文になり、申し訳ございませんです。

katsu さんのコメント...

YamaChanさん
1枚の写真からはその時代の様々なことが読み取れるとは宮本常一の写真の世界でした。
弦巻三丁目の写真も鉄道写真ではないですが、人それぞれ1枚の写真から読み取れるものがいろいろありますね。
この辺りから見えた駒沢給水塔にまつわる子供時代の思い出は面白いですね。
「少年ジェット」はあの「赤胴鈴之助」の武内つなよしの漫画でしたか。
私の子供時代は確か赤胴鈴之助の少し前でした。
あの子供時代にどんな漫画に影響されたかで年代層が判りそうです。
何もない時代の子供たちの情報はラジオや月刊誌や漫画本が全てで、やがてテレビ漫画に影響されて行く。
情報が少ない時代ほど子供たちに刷り込まれる遊び場や漫画の影響は絶大なものがありますね。
そういえばこの写真の少し前の頃、世田谷の夜は真っ暗闇だったのを思い出しました。

#9999 さんのコメント...

> この界隈は私鉄ファンが多いみたいですね。

何ともうらやましいお話です。

私が撮影していたころは、もちろん高校に鉄研はありませんでしたし、いつしか知り合った級友のSLファンと一度だけSL撮影に同行したものの何かしっくり来ず、結局いつも一人で撮影をしていました。この時期に同好の地鉄ファンとの出会いがあったならまた違う展開になっていたかも…。

ドンドコドンドンで始まる赤胴鈴之助は欠かさず聞いていましたし、近所には月光仮面やハリマオがいっぱいいました。大きなアメ車やキャブオーバーのバスが砂埃を立てて走っていた頃を思い出します。

chitetsu さんのコメント...

懐かしい写真ですね!
母親は実家が千歳船橋でしたが、この時代仕事帰りの夜道が竹藪と畑が多くて怖かったと話していたのを思い出しました。
喜多見付近の親戚の家の辺りは40年代後半でもこんな風景のところありましたね。
認証の件、私も外す操作しても外れません。
困ったものです。

katsu さんのコメント...

#9999さん
世田谷あたりは小田急や東急の沿線で国鉄とは縁遠く、普段見ている私鉄のファンが周りに多かったのは自然の流れだったのかもしれません。
しかし、なんで東京ではなく見たこともない地方の私鉄を追い求めたのか?
それは幼いころに見た鉄道模型趣味誌の「地方私鉄めぐり」の写真に虜になったせいでした。
それと同好の仲間が居たのが幸いでした。もし一人であったら遠方まで出かけなかったでしょう。
同好仲間との出会いはその後の鉄道趣味を左右するものなんですね。

子供の頃に体験した遊びやクルマなどの風景はとても懐かしいですね。
そのほとんどは写真がなくて脳裏にかすかに残った残像であり、よけいに貴重さを感じてしまいます。

katsu さんのコメント...

chitetsuさん
祖師谷大蔵から千歳船橋あたりは確かに一面畑でした。
喜多見から成城の山にかけて夜は真っ暗闇で、砧のNHK電波塔の先端が赤く光っていたのを思い出していたところです。
こんな世田谷の夜の暗闇は昭和30年前後まであったような気がします。

匿名 さんのコメント...

真中食品が真中パンの後の名前だと思います。そこの子どもが私の友だちでした。その前は知りませんが、パンは作っていなかったような気がします。

katsu さんのコメント...

匿名さん
そうでしたか。
工場を拡大した真中パンが長く続かずパン製造を止めて
真中食品(スーパ?)を開いたということですね。
子供時代の真中パンを話してくれた友人も昨年亡くなりました。
この時代を語れる人もどんどん居なくなって行くのが寂しい限りです。