案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2014年9月30日火曜日

仙北鉄道 軽便の魅力

先日の第10回軽便模型まつりは残念ながら都合がつきませんでした。
今年も素晴らしい作品が展示されたようで見学できず惜しい思いです。

第10回記念製品でブルーに塗られた仙北DC103の写真が大変刺激的でした。
そこで既に本ブログで公開済みですが現役時代の仙北DC103他を再度アップしてみます。

軽便のたたずまい.軽便の魅力ここにあり. 瀬峰 1966.03.01
東北本線瀬峰駅を降りて跨線橋を渡ると軽便らしいたたずまいが現れる.
軽便と国鉄の線路が並走し2'6''と3'6''ゲージの違いが分かる光景.
軽便はこうして国鉄の駅の片隅からひっそりと出発していく.


朝の貨物入替え作業に出て行くDC103 瀬峰

貨物長大編成 1966.03.01 沼崎下 - 瀬峰

田んぼの中をやってきた下り2本目の貨物列車。 板倉 - 佐沼 1966.03.01

賑わう駅とDC103の貨物長大編成  佐沼
以前、ブログのタイトルに使用したカットです。

DC103  佐沼

登米からやってきた列車が米谷駅でスイッチバックし瀬峰へ向かう. 1964.08.04

こんな小編成もあった。 昼前に瀬峰へ向かうDC103。

2014年9月21日日曜日

街人鉄写真 私鉄地上駅

このところ盛んに私鉄の街風景をアップしているCedarさんの今昔写真日記
私もよく撮っていたあの頃を思い出しました。
西武新宿線の上石神井駅、武蔵関駅もいずれ立体化で、街にとけ込んだ地上駅の風景も消えることでしょう。

ところで、鉄道写真家が 編成写真とは、形式写真とは、鉄道風景写真とは、イメージ写真とは こうして撮りなさい、なんてよくおせっかいな撮り方(構図や車両位置など)を言っています。形式写真ならいざ知らず、どれもがそんな型にハメられたら鉄道写真は皆同じでつまらなくなります。鉄道写真はジャンルも撮り方も自由自在であり、こうでなければいけない、そんなハメ型は外してしまえばもっと楽しくなると思うのですが。

商店街のすぐ向こうに見える電車とホーム。私鉄郊外電車らしさを残す風景。
西武新宿線 上石神井 '2008.05.12

上石神井

西武新宿線 武蔵関  2008年5月

そして既に消えた地上駅風景、これから消えゆく風景は限りなくある。

消えた地上駅 小田急下北沢 2008年9月

消えゆく地上駅 京王線明大前 2009年6月

消えゆく地上駅 京王線下高井戸  2009年6月

 路面電車の地上駅の良さはこれからも変わらないでしょう。 世田谷線下高井戸 2009年6月

2014年9月17日水曜日

北陸鉄道加南線 悲運な特急電車

北陸鉄道加南線の主力路線である山中線に登場した特急電車6000系「くたに」と6010系「しらさぎ」の話題が出たところで、この電車の現役時代を再び紹介してみます。

1962(昭和37)年に「くたに」が登場し、翌年に「しらさぎ」が増備された自社発注の特急電車。
写真の「しらさぎ」は投入した翌年で、中古品の足周りの上にアルミ合金製の車体がピカピカに輝いていた。そしてツートンカラーの「くたに」は投入2年目で、カルダンドライブの最新鋭電車が優雅に走っていたのが印象に残る。

北陸本線大聖寺から山中温泉までの温泉客を見込んで投入した2編成だったが、その後の余りにも急速な社会の変化により、バスやマイカーに客を奪われ1971(昭和46)年の山中線廃線で役目を終えた。
この2編成が山中線で使われたのは僅か10年にも満たない。その後大井川鉄道に引き取られ没落した姿の方が遥かに長い年数だったようだ。山中線に登場してからの数年が山中温泉と山中線ともに繁栄していた時代だったのだろう。

6010系「しらさぎ」 山中温泉 1964.12.29

旧型車の台車・電機品を流用した「しらさぎ」 山中温泉

ピカピカに輝いていた6010系「しらさぎ」 大聖寺 1964.12.29

大聖寺駅で発車を待つ「しらさぎ」の車内

ツートンカラーに塗られた6000系「くたに」 河南-山代

元温泉電軌1820形(ブラウンボベリのコントローラ搭載)と 「くたに」が出会う河南駅

山中車庫に休む「くたに」

全てが新製された「くたに」 山代車庫

美しい「くたに」の車内

元温泉電軌1810形と並んだ「くたに」  山代車庫

2014年9月11日木曜日

北陸鉄道 いぶりばし

昭和39年に北陸鉄道を訪問した時は、北陸本線の動橋(いぶりばし)から山代線と片山津線の2つの温泉行き電車が出ていた。(加賀温泉郷行きの電車山代線片山津線は本ブログで紹介済み)

更に北陸本線で一駅先の粟津からは粟津線が出ていて、粟津温泉を通って山代線宇和野まで昭和37(1962)年まで走っていた。
粟津線は見た事もないがこんな(写真下)北陸の空の下、白山を望む畑の中を走っていたと想像される。
温泉郷が衰退するずっと前の動橋(いぶりばし) や粟津から、こんな小さな温泉行き電車が走っていたのは今やもう人々から忘れ去られてしまっている事でしょう。

山代線 新動橋 - 庄 1964.12.29
今にも雨や雪が降りだしそうな黒く立ち込めた雲.背後に白山の山並みが光る.


山代線 庄駅近く. 粟津線が分岐する宇和野駅はこの2つ先となる.


国鉄動橋(いぶりばし)駅から少し離れている山代線新動橋の風景。 

国鉄動橋(いぶりばし)駅の反対側から出ていた片山津線の電車

北陸本線動橋駅のホームに隣接して、片山津線のホームと車庫があった。
加南線では片山津線だけがビューゲルであった。 

北陸本線動橋駅 一つ先が粟津駅

2014年9月3日水曜日

京福鞍馬線 岩倉のあの頃

京福鞍馬線 岩倉盆地 を読まれた方から頂戴したメールに1966~1968年当時の岩倉駅や鞍馬線の素晴らしい描写がありましたので、了解を得てここに紹介します。私もあの正月厳寒の岩倉盆地を訪れた時のことを改めて思い出しました。1960年代後半(昭和40年前半)に入っても、郊外にはまだこんな質素で優雅な時代が残っていたのですね。

 比叡山を望む岩倉駅 1969.01.02

正月の厳寒に震え上がった岩倉駅に客は暖かそうなお二人だけ 

岩倉駅近くに66年から68年まで暮らしてました。とても懐かしいです。当時は山村という感じでとても京都市内とは思えないところへ来てしまったという感じでしたね。岩倉駅の薄水色の駅舎が目に浮かびます。改札口?の所に持ち込み可能な手荷物の見本が立方体の木型で置いてありました。当時から無人駅でしたが時々切符売りの駅員さんが来てました
ダイヤは1時間に4本で岩倉駅折り返しが2本鞍馬まで行くのが2本で便利さはまあまあでしたが春の連休時に必ず24時間か48時間のストライキで運休するので岩倉は陸の孤島になりました。
2つ目の写真の岩倉川にかかる鉄橋のレールに夏になると蛍がとまっていました。川のたもとにお粗末なお便所があり、京都バスの女車掌さんが使ってました。この写真ではもうなくなってますね。
当時は駅前によろずやが一軒あるだけ、食堂も銭湯もなく、不便さに耐えかねて中京へ移りましたが、市内との温度差はかなりあり、夏の深夜はかけ布団がないと寝られなくなる岩倉が懐かしくなりました。

あの頃の叡電の年中行事ときたら春の連休のストライキと晩秋に行われる鞍馬の火祭りの際の電車のエンコでしたよね。
鞍馬の火祭りは鞍馬線にとって最大のイベントで市内と鞍馬を結ぶ最大の交通機関である叡電にとって年間最高の稼ぎ時でしたが、なにしろオンボロ電車でしたから毎年積載オーバー?で過熱して?立ち往生し、祭りから帰るお客さんはいつも市バスも市電もなくなってしまった出町柳駅に降り立つのでした。それでも非難轟々とならなかったのんびりした時代でした。
 以上 匿名さん

正月休みの京都(私の記録より)
1969年の正月、この頃は私の会社人生がスタートした頃で、貴重な7日間の正月休みは寝屋川の友人宅を訪ね正月の関西観光の筈であった。この頃は鉄撮りは全く関心なしで、元旦に奈良へ行った翌2日は京都見物の筈であった。ところがこの日突然友人は彼女と京都ドライブだということで、私一人で京都へ行くことになった。
一人の観光では楽しくなく、仕方なく京都市電や京福叡山線を撮りながらなんとなく岩倉盆地にたどり着いた。正月の京都市内各所でさんざんアベック姿を見せつけられ、岩倉盆地では余りの寒さに良い想いもなく早々に岩倉を切り上げ東京へ引き上げてしまった。
こんな寒々しい正月の京都であったが不幸中の幸いで、この時に友人と京都観光でもしていたら京都市電も京福叡山線も撮ることはなかったろう。残念なのはもし鉄撮り趣味を辞めていなければ友人宅をベースに正月休みの殆どを使って京都の私鉄を撮りまくっていた筈で、更に大きな収穫があったのに・・
今思うとほんとうに勿体ないことをしてしまった。

なんとなく撮った大晦日の大阪市内 1968.12.31


元旦の奈良 若草山 1969.01.01

元旦の奈良 法華堂