以前に頂戴したコメント
モハ573は撮影当時、すでに電機代わりに使われていたようですが、僕が両親に連れられて遥遥、福井から内灘に海水浴に訪れた時、乗った電車のポール集電器の印象が深く、今でも覚えているので、もしかしたら当時は立派に旅客電車として走っていたのではないでしょうか、地元の方の投稿を待ちます。
僕が内灘に行ったのは小学3年の夏でした。因みに、1953(昭和28)年のことです。
北鉄の駅の雑踏の中で菊の花の氷柱が涼しげでした。
福井のやすしです。
撮影:1964.12.31
サハ221 内灘
サハ211 内灘
コメントにあった1953年頃、モハ573がこんな客車を牽いて粟ヶ崎海岸まで海水浴客を運んでいたことを想像してしまう。
北鉄金沢の貨物線で働いていた モハ573 北鉄金沢
左にカーブして粟ヶ崎海岸へ延びる休止中の線路、島式ホーム、駅舎と内灘駅の全体が分かる1枚。
余りに殺風景な終点で、私はここが行き止まりの粟ヶ崎海岸駅と思ってしまった。
この時代に左に伸びていた線路は海水浴シーズンに海岸まで走っていたかも知れない。寂しいこの内灘駅は少し前まで貨物駅であったことを全く知らなかった。
余りに殺風景な終点で、私はここが行き止まりの粟ヶ崎海岸駅と思ってしまった。
この時代に左に伸びていた線路は海水浴シーズンに海岸まで走っていたかも知れない。寂しいこの内灘駅は少し前まで貨物駅であったことを全く知らなかった。
私のコメントから
訪問時(1964年)は内灘~粟ヶ崎海岸は休止中で線路は残っていて1974年に廃止されたようです。鉄ピク216号私鉄車両めぐりに紹介されたようで、海水浴場までの経路が記録されています。現在の地図に照合してみるとなんとなく軌道跡が推定できます。
何とGoogle地図に粟ヶ崎海岸駅跡が表示されていました。
そこは海が目の前、小さな電車が内灘の海水浴場まで通っていたのですね。
10年程前、この内灘の海岸を確認に行ったら海岸道路が走る実に殺風景なところでした。