間沢から少し進むと舗装路が終わり谷川に沿った山道に入る。それほど狭くもないごく普通の山道を進むと1時間ほどで一面に視界が開け志津の高原に出た。急にひんやりとした冷気を感じる広漠とした原野であった。
スキー板を載せた東京ナンバーのクルマが何台も止まっている志津の旅館街をぬけ、月山の手前の姥ヶ岳へ登り始めるところに国民宿舎「月山壮」があった。しゃれたロッジ風の宿舎でここで友人と合流し宿泊した。
この15年くらい後に家族と月山へ来た時は新幹線とバスで一気に志津に到着し、三山線もとっくの昔に消え、志津方面へ向かう立派な道路が何本も開通し、あの時に信仰の山「月山」へ向かった雰囲気は全く消えていた。
5月連休中の国民宿舎「月山壮」 1971.5.5
写真の月山壮に泊まった翌日は一日雨となり、ここにもう一泊し翌日羽前高松へ下った。この日も陽が差さず、やる気なしで曇天の寒河江川鉄橋で撮ったのがこの写真であった。
白岩-新田 1971.5.5
白岩-新田
「三山線の終点間沢の駅前食堂でラーメンをすすり、月山へ向かった。」
返信削除いつも思うんですけど、こういう一見何でもない書き出しから、その時の旅のイメージが膨らんでいくんですよね。
毎回、名文だなぁと思いながら読ませていただいてます。
駅前食堂とか、国民宿舎とか、最後の画像の「フジカラー」のネガ用外袋(というのでしょうか?)なんて、めっきり見なくなりました。
(ちなみに私は「さくらカラー」をよく使ってました…)
今、ウチの子供たちなどは銀塩写真を知りません。家内でさえポジフィルムを知りません(これは無理もないかも…)。
デジタルデータは優れている反面、何かのはずみで消えたり、βのビデオのように、ある日をもって再生ができなくなる事も考えられるのに対して、ネガの場合は保存状態さえ良ければ百年でも大丈夫と、何かの本で読みました。
katsu様の、当時の物を大切に現在に伝える姿勢に、いつも感服するばかりです。
長文すみませんでした。
esehokuさん
返信削除お褒めいただきありがとうございます。
月山と三山線をなんとか結びつけたくて「地方私鉄めぐり」ノートにあった文章をそのまま使いました。
地方私鉄の車両解説や歴史は最小限とし、当時の訪問で何があったのかを書きたいのですが中々難しいですね。
ノートにビッシリ記録ある路線もあれば、ノートが真っ白な路線もあります。
どこで撮ってどう移動しただけなら何年たってもネットで調べることができますが、
何があったのか、何を感じたかは何十年も経つと真っ白を全く埋めることができません。
撮影時の文章は大事ですね。