この写真の陽ざしは朝でしょう。
自社工場製の模型的な車両の魅力、路面電車が専用軌道を走る楽しさなど、魅力溢れる路線であった。といっても私は何べんも計画立てながら他を優先してしまい、訪問が叶わなかった路線。
田辺さんが撮った清水市内線からです。
撮影:田辺多知夫 1967.1.7
じっと見ていたくなる新清水の朝の光景。朝の光線が素晴らしいですね。
巨大サイズにプリントしてみたくなります。
1枚目と2枚目の写真はシーケンスで、電車の動きや人の動きが分かる。電車(55)は国道から新清水駅に入って行くところで、湊橋 横砂に向かう電車(60)が接近し、向こうに横砂 港橋行きの電車(66)が朝もやの中に消えていく。背後に写る建物には正月明けの「新春初売り出し 新静岡センター」の文字が見える。
巨大サイズにプリントしてみたくなります。
一期一会で終わった清水市内線、横砂まで往復してるのに駅前の写真しか残っていません。6月に静岡に行った時、新清水駅前で面影偲んできました。
返信削除Cedarさん
返信削除私も今の新清水駅に行きたくなってきました。
と言うだけで滅多に動かない私です。
これまで新清水駅で市内線と鉄道線が接続するのが写真ではよく分からず
今回、調べて初めて知りました。
いいですね~、まさにセクション・レイアウトの題材ですね。
大都市の市電とは違って、地方私鉄の路面電車は何と素晴らしいことでしょうか。
2度コメ失礼します。58+59は2両固定の改造連結車で、Cedar親子が初訪問した時、長沼から出場ほやほやで新清水の連絡線でじっくり観察しました。
返信削除新清水近辺も衰退したますね。
返信削除前にも書いたかもしれませんが、静岡鉄道が軌道線と鉄道線をシームレスで運行し
七夕豪雨が起こらなかったら、どうなったでしょうか。
Cedarさん
返信削除失礼しました、さんが脱落していました
やはり固定編成でしたか。
いや~実に面白いですね、そしてすぐ模型化の題材にと考えてしまう。
とっくにどこかでこの編成の模型を出しているのでしょうね。
何故かこういうのはNゲージがよく似合う感じがします。
清水市内線、いつも浜松などに旅行に行くときは大概在来線を使うので、興津から清水にかけて線路跡が並走してきます。
返信削除ここをこんなに愛らしい路面電車が走っていたと思うと、いつも乗りたかったという気持ちになります。
単線の線路を路面電車が走る様は昔の江ノ電みたいですね。
昭和49年の七夕豪雨がなければ今頃も走っていたのでしょうか。
今でもあったら帰り道に横砂から興津駅まで徒歩移動していたのかも知れませんね。
宵闇さん
返信削除昭和49年まで走っていたとは意外でした。学生時代の最後に諦めていて、それから7年も清水線走っていたのですね。十分訪問するチャンスがあったのに残念なことしました。
東海道本線と並走するところは興津から清水にかけてでしたか。早速、地図でこの区間それらしき軌跡を探してみました。なるほど、59固定編成が走る富士山の頭が見える並走箇所も分かりました。そして直線区間の両端に微妙ないかにも軌道跡らしきカーブがありました。こんなことしていると、これで一日過ぎてしまいそうです。
清水市内線は東京オリンピックの前年、小学校の遠足で新静岡から新清水まで鉄道線、その後新清水から横砂までのり、袖師海岸に行きました。乗る機会はたくさんあったのに乗車したのは1回のみでした。今思えば残念なことをしました。
返信削除2枚目の写真、電車(60)が向かうのは港橋(湊は間違い)ではなく、横砂です。電車(66)が向かっているのが港橋です。電車の背後の駅は「新清水」です。新静岡センターそこではなく、反対の起点駅の新静岡にあったショッピングビルです。新静岡センターは一度取り壊され、現在はよりオシャレな「セノバ」になりました。
匿名さん
返信削除ご指摘ありがとうございました。
確かに港橋と横砂が逆でしたね。訂正します。
背後の駅は「新清水」として表示したつもりです。
また背後の建物は「新春大売り出し 新静岡センター」と表示された幕から
新静岡センターとしたもので、当時ここにもあったのではないでしょうか。
懐かしい写真を有難うございます。高校まで辻町(当時は深崎町と言ってました)に住んでいました現在73歳の爺です。小学生の頃は袖師や三保の海水浴に行くのに、この電車をよく使っていました。三保の海水浴には港橋までこの電車で行き、歩いて港まで行き、ポンポン船で三保まで渡りました。清水には40年程行っていませんが、Google mapで見る清水市内の風景には隔世の感があります。寂しいながらも懐かしい思いで写真を拝見しています。有難うございました。
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