2015年7月27日月曜日

北陸鉄道能登線 羽咋

北陸鉄道能登線の羽咋(はくい)を初めて訪問したのは1962年の真夏であった。
それから10年後の1972年3月に先日の雪の羽咋を撮った田辺氏と青蛙氏が訪問していた。
よく考えてみれば私が国鉄能登線のC11「おくのと号」を撮って能登金剛へ行ったのも同じ年1972年の9月であり、北鉄能登線の廃線(1972年6月)直後の三明と羽咋をクルマで素通りしていた。
その頃は羽咋といえば観光「なぎさドライブウェイ」で北鉄能登線がまさかそんな時代まで走り続けていたとは全く知らなかった。

地方私鉄ムードあふれる北陸鉄道能登線羽咋駅の佇まい. 1962.08.02
キハ5162、キハ5001、キハ5151が見える

羽咋構内にあった車両小屋.構内で休む車両は個性派ばかりであった.

こんな単車コハフ1501に乗って夏の日本海海岸線へ向かった.

小屋から出てきた小さな気動車キハ5001が給油し発車の準備をしていた.

羽咋を出発した列車は海水浴客で超満員、国鉄七尾線と並走する.  1962.08.02
キハ5162+コハフ1501

鉄橋を渡り左にカーブして七尾線をオーバクロスして日本海へ出る.


そして10年後、日本は"Discover Japan"の時代
以下の3点は、先日の田辺氏撮影の雪の羽咋駅.1972.03.04
"Discover Japan" 羽咋を発車する国鉄七尾線のふるさとSL列車C58「おくのと号」

輪島へ向かう七尾線C58「おくのと号」そして右に北鉄能登線の線路.

1972年6月に廃線となった最後の年の北鉄能登線 羽咋構内
元遠鉄二俣線キハ803であったキハ5213. 赤い気動車3両の1両.

2 件のコメント:

  1. 私が初めて能登を訪れたのは、昭和47年の夏休み。金沢から満員の観光客を乗せて8両編成で出発した急行「のとじ」、穴水で輪島行きと珠洲行きに4両ずつに分かれ、その珠洲方面へ向かったのでした。その頃はまだ急行の「二等車」にはエアコンもなく、窓を全開にして心地よい海風をいっぱいに受けたのでした。当時の能登半島はまさに"Discover Japan"の真っ只中、宿を取るのも一苦労だった頃でした。そんな中、羽咋駅にはその直前に廃線となった北鉄能登線のホームがまだ残っていて、次の駅名「のといちのみや」が書かれた駅名板も残っていました。この道中では、珠洲市の中心に近い「能登飯田」のバスターミナルから観光バスに乗って、禄剛崎、曽々木海岸、千枚田、輪島塗り会館、総持寺、そして推理小説の舞台としても名高い能登金剛と、途中一泊をはさんで一通り回り、羽咋に戻ったのですが、北鉄能登線の終点だった「三明」の駅名板もやはりまだ残っていたのを見ています。夏休みという「書き入れ時」を目の前にして廃線となってしまった「無念」が伝わってくるようで、痛ましいものも感じ取ったのでした。北鉄能登線は、能登金剛~輪島方面を目指して建設されたものの、元から経営も厳しく結局途中でストップしたままになってしまったというらしく、終点だった「三明」駅は山間の寂しい場所で、周りにはこれといった名所もなく、中途半端で観光客にも使いづらい路線では、やはり力尽きてしまったのでしょう。
    それから20年余りの時を経て、最後に能登を訪れたのは、平成7年の夏休み。和倉温泉では街中の小さな宿(今も盛業中)に一泊、懐かしの恋路海岸でも海水浴を楽しみ、最後はかの超有名な「ランプの宿」に泊まっています。このときは既に和倉温泉から先が「のと鉄道」となっていたのですが、20年余り前とは交通事情が一変、急行列車も編成が半分になって、観光客も観光バスや自家用車にすっかり取られて「鉄」の衰退がはっきり読み取れたのですが、それでも穴水から先の鉄路がどちらもこんなに早く消えてしまうとは予想できませんでした。
    このときには、和倉温泉に行く前に羽咋で寄り道をして、タクシーを飛ばし、「千里浜渚ドライブウェイ」を通り、北鉄の沿線にあった能登一宮・気多大社、五重塔もある古刹・妙成寺にもお参りしています。
    能登半島の北西側の海岸では、海岸の浸食が進み、「千里浜」の砂浜も昔より大きく幅が狭まり、北鉄の沿線にあって、かつては金沢から直通のSL臨時列車も運行されたというほど賑わった「柴垣」の海水浴場も、砂浜の侵食と海水浴客の減少で、最近ついに閉鎖に追い込まれたようです。

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  2. 伊豆之国さん
    奥能登の旅行は私もほぼ同じ時期で昭和47年の9月中旬でした。クルマで奥能登海岸一周で珠洲に泊まり輪島へ抜け能登金剛に一泊、そこから三明~羽咋を通過しました。まさに北鉄能登線廃線直後で能登線の施設などいろいろと残っていたのでしょうね。残念ながら何も確認もしませんでした、というより"Discover Japan"に流されて鉄道は国鉄SL「おくのと号」のことだけ、北鉄能登線の廃線などは全く頭にありませんでした。
    あの時代の私の能登観光はそれまでやってきた消えゆく私鉄求めての旅の反動だったのでしょう。

    昭和37年の柴垣の海水浴場はそれは長閑な風景でした。そして昭和47年の羽咋なぎさドライブウェイも素晴らしい思い出が残りました。そんな能登の風景も今ではすっかり様変わりしてしまったようで寂しい限りです。
    1960年代~70年代前半まで私鉄やSLが消えゆく時代がちょうど独身時代と重なり、鉄撮りの合間に垣間見たあの日本の風景の思い出が鉄道写真の片隅に残されたことがラッキーでした。

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