幡生線は東下関~幡生まで2.2Kmが単線専用軌道となっている。
この区間は、東下関を起点とした長州鉄道を昭和3年に引継いだそうだ。
では幡生から下関市内へ向かってみます。
幡生の駅、TVアンテナのあるこの建屋に駅員が住んでいたのだろうか。
幡生を出発した電車(彦島口行)は、田圃の中を下関市街へ向かう。 1967.2.27
途中の交換駅 金比羅。 専用軌道区間はこんな風景が楽しい。
金比羅を過ぎ、カーブして築堤を登って山陽本線をオーバクロスし
しばらく走ると車庫や工場が並ぶ中を東下関駅に到着する。
小生は2年後の1969年2月にこの軌道を見ていますが、結構忙しく車両が行き来していたように思いますが、その数年後廃線となったのでしょうね。このころから、すべてコダックのカラー写真でしたから現像してネガのままです。魅力にはいまいちだったようにおもいます。1日利用券がきれいだったな。
返信削除青蛙さん
返信削除ここは数年後の1971年に全廃しました。
市内はありきたりでしたが、路面電車はどこでもそうですが末端の路線が魅力的です。車両も変化があり中々魅力的でしたが台数、本数が多くて薄まってしまったようですね。まあ地味な路面電車でした。
最初のカット~電車のいない鉄道風景にしびれます!
返信削除その他のカットも、人の動きや表情、犬の姿など、見ているうちに頬ほころび、やがて泣けてくる。そんな感じであります。すばらしい!
Cedarさん
返信削除いつも感想ありがとうございます。
当時の鉄道情景を楽しんで頂けたようで、嬉しいです。
鉄道の脇役に時代の情景があるのを心掛けています。
とても懐かしいです。幡生本町に住んでいました。起点の幡生駅の建物は、運転手の休憩所だったと思います。すぐそばに国鉄の幡生駅がありました。近くに10円でたこやきを3つ買えるおいしくて激安のお店がありました。東下関駅は、地元では、東駅と短名で読んでいて、山電バス(写真にもある筋入りのくじら模様塗装)とこの路面電車で常に渋滞気味だったと思います。(危ない交差点でした)
返信削除gattinnさん
返信削除コメントありがとうございます。
幡生駅のテレビアンテナが立っていた小屋は駅員ではなく運転手の休憩所でしたか。
東下関は電車やバスの行先表示では東駅でしたね。
筋入りのクジラ模様塗装のバスは他に写っていないか探したのですがスバリの写真がありませんでした。
あの模様がクジラ模様を表しているとは知りませんでした。
昭和42年の東駅では朝のラッシュ時に路面電車の出入りで大変賑わっていて、
とても消えてしまう雰囲気はありませんでした。
金毘羅駅、なつかしいです。1962年小1だった私はこの駅を降りて左にみえる道路を渡り坂道を登って海が見える高台の画家さんのアトリエに行っていました。大坪から金毘羅駅の途中が立体交差になっていて下を車が行き来している光景が子供にとっては都会のイメージとして強烈に残っています。今見るとずいぶん戦後っぽい景色だったことが分かり、それはそれで感慨深いです。
返信削除まりさん
返信削除コメントありがとうございます。
金毘羅駅から坂道を登って海が見える高台のアトリエから見える1962年の風景、さぞや素晴らしい風景だったことでしょう。小学1年生だったことで尚更強い印象ではないかと思います。
大坪~金毘羅間の立体交差を私は電車に乗って通ったのですが全く記憶に残ってませんでした。
高台の画家さんはきっとこのアトリエからの風景を描いているでしょうね。
ところで小ブログで金毘羅駅の写真を改めて見てみると1枚のみでした。
当時の雰囲気を残す駅を何枚かアップしたはず? はfacebookの方でした。
もう一度、小ブログで金毘羅駅を取り上げたいと思います。
山陽電軌の幡生駅、懐かしい!汐入町のさざなみ保育園に通っているとき、毎朝ここから乗っていました。運転手さんが、金色のハンドル?をクリクリ回すのをじっと見ていたものです。
返信削除幡生駅横の地下道に降りる角にあった有田のたこ焼き屋さんのことを知っている人がいることに感激です!当時10円で3個買えたので、晩ご飯の前に食べに行って、晩ご飯が進まなかったのを思い出します。
幡生駅の写真はパソコンの壁紙にしています。
ちなみに私も幡生本町に高校生まで住んでいました。
返信削除monpeiさん
返信削除コメントを読ませて戴き、すっかり忘れていた幡生線の投稿を
改めて振り返ると素晴らしい幡生線が目に浮かびます。
幼少時代の幡生線の思い出を語ってくれたひとがこれで3人目、
大変珍しい路線だと思います。
皆さんのコメントのお蔭で山陽電軌はたった2キロの幡生線だけで物語が生まれそうです。
どなたかが言っていたようにこの時代の幡生線はまるでジブリの宮崎駿作品の場面みたいで
もし彼が知っていたらきっと何かの物語の場面に使いたくなるでしょう。