2021年9月11日土曜日

晩秋の頸城の森

 これらカラーは百間町から飯室まで歩いて撮影したものです。

1968年10月に新黒井-百間町間、飯室-浦川原間を廃止し信越本線との接続を断たれた頸城鉄道。
残された区間(百間町~飯室)5.9kmをホジが1日9往復していて効率的に撮ることができた。
この沿線には保倉川が流れ、農業用水路が流れ、ハザ木があり、集落がありそんな頸城平野に生活感が溢れていた。
1971年5月まで残存区間を走った3年間はそれまでとは違った頸城鉄道の魅力だったのかも知れない。

撮影:1970.11.2

朝の下り一番列車。百間町

朝のこの時間は1番列車に接続したバスが通勤客を乗せて直江津へ向かった時で腕木式信号機の向こうに直江津行きバスが見える。下り飯室行の発車を待つ待合室には若い女性が一人。

百間町を出て暫く平地を走り森に入る。


木駅の時刻表


線路に沿って森と田畑がありそこに集落がある。

早朝の明治村駅に朝日がさす。


花ヶ崎付近?


大池駅。
森と田んぼに囲まれた大池駅に百間町行のホジが到着すると、土盛りした低いホームに車掌が降りてきて杖をついたお年寄の乗車を見守る。


大池を出るとまた森に入る。 大池-飯室
ハザ木の合間に大池駅が小さく見える。


飯室で線路は終わる。


飯室駅の先に放置された客貨車。

8 件のコメント:

  1. 先輩のカラー画像、なんだか珍しいですね。題材と風景のせいか、ジブリ映画のアニメーションの色調を思いました。素晴らしいです。

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  2.  こんな写真を見ると、「どこにも出かけられない」と嘆くことが虚しくなってきます。だって今さらどこへ行ってもこんな光景見つけられませんよね。先日の大池駅の写真が模型だと気付くまで結構時間がかかったので、今回も模型じゃないかと思ってしまいました。運転手か駅員かわかりませんが、窓の清掃か修繕をしている姿、これも当時の地方私鉄ならではの日常ですね。
     なんとも個性的なホジはこの目で見てカラー写真も撮ったのに、なぜか心に残っている頚城のイメージは白黒なんです。期せずしてテレビコマーシャルでも流れています。カラー写真が主流になって行く過渡期で、フィルムも現像も割高だったし「ここ1枚」だけに絞っていました。にもかかわらずKatsuさん、ホジがカラーで何枚も写っているのは超貴重です。

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  3. Cedarさん
    ありがとうございます。
    私の1960年代画像はモノクロに統一が基本でありこの時代のカラー画像は珍しいかも知れません。
    写真集、写真展ではカラーをモノクロにして使ったものもあります。
    ある路線の1960年代をカラー画像で纏められると良いのですが僅かのカラーネガも今や変色してしまい
    使い物にならなくなっています。

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  4. 鹿部電鉄さん
    お久しぶりです。
    今どこへ行ってもあの時代の光景は見つけられないはその通りですね。
    撮りに行く意欲も年々そがれてきます。

    頸城のこのカラー画像は偶然に1本だけネガの状態が良かったものです。
    頸城の一番お気に入り場面がネガの被害少なく幸運でした。
    これ以外の私のネガカラーは業者に依頼でもしないと使えそうもありません。
    この頸城鉄道最後の秋は僅か半日の訪問でしたがほんとうに多くの収穫があり感銘したものです。
    これ以外にも物語があるのです。

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  5. この頃の私は煙を追いかけるのに夢中で、このような情景には無頓着でした。
    ある意味余裕が無かったということでしょうか。
    最近昔の写真を見直すと、被写体よりもたまたま写り込んでいる周りの情景を見て懐かしんでいます。
    皆さん同じでしょうが、現在のようにフィルムの消費を考えなくても良ければ、どんなに多くの記録が残せたのか、残念に思います。
    使い物にならないような画像でも、掲載いただければ幸いです。

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  6. 井澤さん
    コメントありがとうございました。
    この頸城を撮った1970年、私は社会人になっていて僅かな休み利用して年数回ていどの撮影でした。
    この頃は世はSL撮影の時代になっていたのに私はそれをうっすら知る程度でした。
    もしこの時代が学生であったら私もSLを追いかけていたかも知れません。
    いつも横目でSLを眺めて次はここへSLを撮り来ようと思っていながら社会人になってしまいました。

    形式写真を多く撮ってしまい、よほど貴重な車両でない限り使い道がない写真が多いです。
    形式写真は誰もが同じような写真を撮っていますからね。
    周りの情景が写り込んでいるとほんとうに楽しくなります。
    撮っている時は邪魔だと思ったものが車両より面白いそんな50年60年後の今ですね。

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  7. 頸城鉄道のことは、少年時代に鉄道F誌で知りましたが、なぜ孤立した真ん中の区間だけが残されたのか、謎でした。沿線の道路の整備状況の遅れが関係していたのでしょうか。頸城鉄道は、現在の「ほくほく線」の開通までは、との思いもあったようですが、「ほくほく線」の開業は、「頸城」の廃線から20数年も後になってからでした。その「ほくほく線」には、「うらがわら」とか「大池いこいの森」といった、かつての「頸城」にあった駅を思い起こすような駅名もありますが、駅の位置もルートもだいぶ違うようです。
    最後まで残った区間にあった「明治村」という駅、ここがかつて「中頸城郡明治村」という地名だったところで、これは全国に20数か所あった「○○郡明治村」という「自治体としての明治村」の中で最後まで残った「明治村」だったそうです。中頸城郡明治村は昭和32年に「頸城村」の一部になり、更に「平成の大合併」で上越市の一部になっています。

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  8. 伊豆之国さん
    1960年代の航空写真を見ると廃止した車新黒井~百間町、飯室~浦川原には集落が殆ど無く一面の田園地帯、そして残存区間の百間町~飯室には森と集落があります。

    浦川原から出たバスは飯室経由して集落とはかけ離れた田園を直江津に一直線。
    残存区間の両端からしっかりバス接続さえしていれば残存区間の集落の足はそれまでと変わらずと思われます。すでに直江津に出るには百間町でバス乗換が便利だったと思われます。

    また残存区間は道路が未整備で豪雪地帯の冬にはなくてはならぬ鉄道だったと思います。それも直ぐにマイカー時代になり道路が整備されるにつれて残存区間の足もマイカーに変わって行って、数年の残存区間の存在理由も無くなった。と想像します。

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