2018年10月28日日曜日

駿遠線を初めて訪問した時。

1963(昭和38)年春、遠鉄奥山線の奥山まで撮りに行った帰りに初めて訪問した静岡鉄道駿遠線。東海道線袋井から二つ目の諸井あたりで初めて撮った沿線風景で、驚きの蒙古の戦車が牽く列車が次々と現れたのはこの時であった。気動車も客車もその全てが初めて見る車両ばかりで、この時の驚きと感激は二度目の訪問以降では薄くなってしまった。

撮影:1963.4.4 諸井近辺
自社製気動車が木造客車を牽いて竹藪に消えて行く。

諸井に到着するDB機関車が牽く列車。

DB機関車が客車1両だけ牽いて現れる。
赤ん坊を背負ったお母さんが後部のシートに座って、過ぎ去る景色を眺めている。

東海道線袋井駅の片隅から発車していた小さな車両達の駿遠線。

袋井で見た車両たち(蒙古の戦車は過去に掲載済みで除く)
キハD8 日車製

ハ8 岡部鉄工所製  旧佐世保鉄道 ハ7

ハ11 日車製

ハ7 日車製

ハ10 日車製

キハD4 日車製

ハ107、ハ112  袋井工場製

袋井工場の脇を行くDBが牽く列車。

袋井工場の部分拡大。

5 件のコメント:

  1. 久しぶりの駿遠線、ありがとうございます。日本一だった軽便鉄道も、今や忘れ去られようとしていますが、その偉業の一つが「自社製造車輌群」でした。これらは清水地区(三保)にあった旧海軍工廠から、戦後になって優秀な技術者を多数受け入れた成果です。失業した技術者たちが、次々と革新的な技術で車両を改造、新製。あの蒙古の戦車たちや、軽便鉄道初というトルクコンバーター式気動車も完成させています。これら優秀な失業技術者たちと、その熱意を受入れた静岡鉄道という会社。その静岡鉄道が、やがて百周年を迎えようとしています。どんな優秀な車両も、人間によって人間のために製造されるのだと深く感じました。タイムリーとも言える機に、駿遠線の素晴しかった情景と車両たちのリバイバル、誠にありがとうございました。

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  2. 匿名さん
    いつも駿遠線のお話ありがとうございます。
    写真(模型)で見せて戴いた駿遠線の謎の大手工場があれほど建屋が多くて広い敷地だったとは驚きました。
    栃尾線とともに駿遠線は異色の軽便であったと思います。
    両社とも技術の歴史が遺産として保存されるべきでありましたが、現実は悲しいですね。
    かって地方私鉄にいた優秀な技術者やメンテナンスマンたちに陽を当ててもらいたいものです。

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  3. 謎の標記板についてお尋ねいたします。袋井駅での「ハ11 日車製」のお写真に、逆さになった謎の鉄板?が写っております。それによると『形式ホハ30/自重5.6瓲』とあります。これはもしかすると、幻の木造客車ハ30のものかもしれません。同客車は仙北鉄道ハ1408(日本車輌製)がごく短期間、静岡鉄道駿遠線で使用された経緯があります。ちなみに同形のハ29(仙北鉄道ハ1407)もいましたが、これらは静岡鉄道車両課発行の書類にも記載がなく、まさに幻の客車たちです。ちなみに写真といっても、藤枝市郷土博物館発行の「軽便鉄道」誌に、車体の半分が写っているだけです。この謎の標記板は、この幻のハ30が実在した証拠になるのかもしれません。おそらく現車は廃車解体され、この部分のみが残されていた可能性もあります。もしこの写真を写された当時のご記憶で、何かお気付きの事がありましたら、ゆっくりで結構です。時間をかけて思い出していただければ幸いです。仔細な点で誠に恐縮ですが、何とぞよろしくお願い致します。

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  4. 匿名さん
    袋井工場に転がっていた『形式ホハ30/自重5.6瓲』と書かれた外板のようなもの、
    撮影時は変なものがあるのに全く気付きませんでした。
    この外板の周辺は一体どうなっていたのか、袋井工場の部分拡大した写真を貼ってみました。

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  5. このたびは謎の標記板について迅速なご対応をいただき、誠にありがとうございました。なるほど追加掲載された袋井工場の部分拡大写真からは、これが何であったのか、なぜそこにあったのかは不明ですね。偶然に写り込んでしまった謎の標記板。これで駿遠線ミステリーに新たな謎が盛り込まれました!
    ちなみに駿遠線で、形式ハフがハに変更されたのは昭和30(1955)年頃。またハ29・30の仙北鉄道時代の自重は4.34トン。これが5.6トンになったのは、木造車の外側に鉄板を貼り付けた、いわゆるテンプラ改造のせいかと思われます。一方でハ30と同形のハ29で、二代目が製造(キハD4のエンジン撤去改造)されたのが昭和40(1965)年です。この謎のお写真?が撮影されたのが昭和38(1963)年4月としますと、その時点でハ30もハ29も廃車解体されていた可能性があります。
    それならばなぜ、これらの車両は短命だったのか。老朽化した木造客車を、わざわざ仙北鉄道(宮城県)から購入したのかという点です。それは駿遠線の朝夕の通勤・通学輸送が激化し、いわゆるラッシュアワー対策に全国から軽便鉄道用の客車を搔き集めていたからです。しかしその後、自社製造の鋼製客車(ハ101~115)が、昭和31~38(1956-1963)年に新規製造(一部は名義上)されました。このためすでに仙北鉄道時代から老朽化が著しかったハ29・30が、人知れず廃車解体されたと思われます。言うならば駿遠線の影武者が使命を終え、人知れず闇に消えて行ったのです。
    歴史上の新事実は、偶然の発見によると良く言われます。このたびのハ11のお写真が、偶然写ったこの謎の標記板が、駿遠線の歴史に新たな1ページを拓かれるよう祈念いたします。このたびは重ねましてありがとうございました。

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