つくばEXPつくば駅~真壁 臨時バスについて。
2011年2月
1987(昭和62)年春、真壁に最終列車が到着し全てを終えた筑波鉄道。あれから今年で29年、本ブログで2011年2月から「最後のつくば鉄道」を連載しましたが、その後の5年でネット環境も大きく変化しました。今や当たり前の画像サイズにして新しい画像を追加しリニューアルしてみます。
昭和62年4月1日、日本の鉄道はJR誕生で新しい時代を迎えた日。
その前日の3月31日は「国鉄」時代最後の日であった。と同時に筑波鉄道最後の日でもあったが、JR誕生前夜の大ニュースに隠れて筑波鉄道の廃線は殆ど話題にならなかったようだ。今、本屋に並ぶ鉄道誌で昭和62年の鉄道の話題を見ても、やはり今も昔もJR・国鉄一色は変わっていない。筑波鉄道の最終日、私は仕事を終え夜の筑波駅に向かった。今夜で終わる筑波駅風景を撮って真壁駅へ向かい、真壁止まりの最終列車の到着を待った。桜が咲き始めた春とはいえ、この日はかなり冷え込む夜で震え上がった。
22時過ぎ到着の真壁止り最終列車を迎え、真壁の下りホームは地元の人々で溢れ、お別れに来た人々の歓声の中をキハ761+505が到着し筑波鉄道の歴史は終わった。
桜が開花した下を気動車は上りホームに移動し、セレモニーの後、別れを惜しむ人達の記念写真の場となり、人々に見送られて回送気動車は土浦方面へ引き上げて行った。
これで筑波鉄道の全てが終わり、夜遅く真っ暗で静まり返った真壁の町を後にした。
寒い中、最後を見届けようと早くから人々が駅に集まっていた.真壁
大変に冷える夜遅く、沢山の地元の人々が最終列車の到着を待っていた.真壁
沢山の人たちに迎えられて真壁に到着する最終列車.1987.03.31
セレモニーの後、最終列車は真鍋へ回送で引き返して行った.
ごくろうさまでした.
筑波鉄道は常磐線と言う通勤電車区間に接続する私鉄なのになぜ廃止?と思いました。
返信削除未だに土浦駅を通ると複雑な思いにかられます。
なとさん
返信削除常磐線接続で常総線は存続したのに筑波線は廃止。
筑波線にとって、つくば学園都市の建設は無縁でそれどころか当時のつくばEX建設計画で筑波鉄道の存在理由は失われたと思います。
多くの廃線と同様に筑波鉄道の廃線もバスに置き換えだった筈ですが、今では元筑波駅から北方へ定期バス路線はありません。今ではつくばEXで「つくば」まで東京から近く観光客も多くなっているのに、北方へはマイカーでないと行けない陸の孤島になっています。やはりバス路線への置き換えはあてにならないものですね。
私が筑波鉄道に乗ったのは、昭和56年頃のことでした。そのときのルートは今となってはもうおぼろげですが、取手→(常総線)→下館→(水戸線)→岩瀬で筑波鉄道に乗り換え、筑波駅下りてバス、ケーブルカーを乗り継いで筑波山に登り、下山して筑波駅に戻り、再び筑波鉄道で土浦に出る、というコースだったと記憶しています。つくば学園都市はその4年後の科学万博を控えて急ピッチで工事が進んでいましたが、筑波鉄道のルートは学園都市とは遠く離れた場所を通っていて、利用客も少なく既にうら寂れた印象でした。
返信削除再び筑波山に登ったのは、今から9年前の晩秋、紅葉の季節。つくばEXPができてからまだほどない頃で、つくば駅前のバスターミナルから乗ったバスは大渋滞で身動きも取れないほど。途中からはサイクリングロードになっていたかつての筑波鉄道の路線跡が並行し、「筑波山口」というバス停に名を変えていたかつての筑波駅を横目で眺めて、ようやくケーブルカーの駅前に着くまでには2時間近くもかかってしまったのでした。すぐ近くにある筑波神社をまず拝んでから、ケーブルで山頂駅へ、それからは26年前を思い出しながら、東西両側にある二つの峰に登り、ロープウェイで下りてバスでつくば駅に戻った頃にはもうとっぷり日が暮れていました。ロープウェイから遠くに小さく見えた富士山のシルエットも印象に残っています。
筑波鉄道の代替バスがいつの間にか消えて、真壁町(現在は岩瀬町などと合併して「桜川市」)が「公共交通機関に全く見放された陸の孤島」になっていたことは、2年ぐらい前だったかに見たTV番組で知りました。車を持たない人は、自転車かタクシーか、「ひたすら歩き」、ということしかできなくなっては、老人や障碍者や児童にとってはもう「住めない町」ということになってしまい、その先に見えるのは「廃墟・廃村」も遠からず、ということになりかねないようで、先行きが大いに心配です…。
真壁町は、「御影石」の産地として有名で、墓石などに今も需要が多いようです。筑波鉄道は、この石材輸送も開業目的の一つとしていたように思われます。
伊豆之国さん
返信削除筑波山軽登山?はつくばEXPができて若い女性に大変人気が出たようです。
昔、筑波鉄道が走っていた筑波北方の沿線には魅力的な歴史的名所ががいろいろあってクルマもたない私は数年前にレンタル自転車で走ったことがあります。
>老人や障碍者や児童にとってはもう「住めない町」ということになってしまい、その先に見えるのは「廃墟・廃村」も遠からず、ということになりかねないようで、先行きが大いに心配です…。
若い頃にこの辺りをクルマで散々走っていた時は何も感じなかったのですが、クルマを手放してみると伊豆乃国さんが書かれたことは正にその通りです。この区間に最低限の公共交通がほしいものです。
廃線跡はしっかりサイクリングロードとして残されているので、遠い将来はつくばEXPつくば駅から動態保存車両に乗って楽しむ鉄道でもできると良いのですが。
鉄道が土地の人々を支え、助けるものであればあったほど、最終日の賑わいは凄かったですね。
返信削除普段は空気のように気づかずにあり、その存在の重さなんて意識しないけれど…「本当に大切なものは失ってみてわかる」のは、人もそうであるように、鉄道も同じなんだと思います。
私の知るところでは、北鉄加南線の最終日に、「いつもこれだけ乗ってくれたらなあ。」という駅員の声があちこちであったのと、あまりの混雑に乗務員が「2輌出せないか?」と駅務係に言い、「そう簡単なわけにもいかない」と返され、単行の電車が重々しく発車するなんてエピソードがあったそうです。(昭和46年の鉄道ピク誌「温泉電軌72年の幕閉じる」より)
直接経験したのは東武熊谷線の最終日でしたが、普段の日中は閑散としていたのに、どこに行っても人があふれ、最終列車が妻沼駅に到着した時には大きな拍手が起こり、先述の加南線の時もこうだったのかと、想いを重ね合わせました。
最近、「葬式鉄」なんてファンがいて、廃止当日に行って最終列車を見届けて盛り上げる事を楽しみにするらしいですが、あまり軽々しいノリで接してほしくないと思います。
先述した理由から、厳かに、敬虔にあるべきだと思うのです。
熊谷線や筑波鉄道の頃は、まだそんな妙なブームはなかったと思いましたが、今、最終日に押しかける土地の人々やファンは心ある人が殆どだと、敢えて信じたいです。
esehokuさん
返信削除私にとって筑波鉄道は近場でいつでも行ける関心の薄い存在でした。
それが消えて何年もたってくると次第に懐かしさがこみあげてきます。
家族を連れて筑波鉄道沿線によく行ったせいかもしれません。
鉄道を日常に使っていた地元沿線の人々の想いはもっと強いでしょう。
筑波鉄道の廃線1987年は既にすでに鉄道ファンが殺到する時代であったと思います。
土浦駅側は分かりませんが真壁側には鉄道ファンのカメラ放列は少なく地元の人がほとんどのようでした。
こんな寒い夜中にわざわざ真壁までやってくる物好きなファンは少なかったのでしょう。
鉄フアンの喧騒などはなく静かで心に残る光景でした。
その後、筑波山の反対側で廃線迎えた鹿島鉄道の最終列車の大騒ぎとは対照的でした。
葬式鉄は車両を大きく撮る必要もなく最終日ならではの光景を撮ることに徹すれば後になって思い出深いものになると思うのですが。
親戚が昔土浦に住んでいたので筑波鉄道の事は話には聞いていました。
返信削除しかし非電化私鉄があまり好きではないワタクシは乗らずに終わってしまいました。
それにしても最終日の賑わいというのはどこか寂しさが漂いますね。
自分は葬式鉄でもあるので今までいくつかのローカル私鉄を見送ってきました。
今の廃止やさよなら運転は警備員を配置したり、妙に高い乗車料金ふっかけたり。最終電車を抽選や先着順にしたり、ここぞとばかり変な街起こし始めたり、なんだか暴動まがいの騒ぎになったりとすごい時代になりましたね。
野上電鉄位までは地元の人たちが集って、そこにファンが絡むというわきあいあいとした雰囲気が大好きで、すごく楽しかったという思い出があります。
野上電鉄の末期はかなり悲惨でしたよ。放漫経営で会社ごと無くなるとあって、最後はかなりピリピリとした空気が漂っていました。撮影禁止の張り紙がいたるところに貼られ、実際私もホームでカメラを取り出したら「そこで撮るな!!」と乗務員に怒鳴られましたから。
返信削除廃止からかなり経ちますが、あの日の事は未だに鮮明に覚えてます。
宵闇さん
返信削除やはり電車好きの宵闇さんだったのですね。
野上の最後に行かれましたか。
野上で地元の人とファンがよい雰囲気であった、はきっと筑波鉄道の真壁と同だろうと想像します。
葬式鉄の大騒ぎはそのまま丸ごと撮ってしまえば面白い題材になると思います。
ところで、筑波鉄道の元筑波駅からつくば北方の廃線跡を貸自転車で走るのはお薦めです。
影武者さん
返信削除それはそれは悲惨でしたね。
鮮明に覚えている最後の日のことが悲惨な思い出とは悲しいことです。
最後の日の感じ方は人様々なのでしょう。
それにしても野上電鉄の終わり方は異常だったようですね。