2年前の大内宿に較べ大きな変化はないようであったが、民家の明るい色のトタン屋根など住まいの改修が少し進んでいたようで民家の原形も次第に変化し始めていたのでしょう。
その後40年、私は行った事も調べたことも無かったが、大内宿の今をGoogleストリートビューで散策してみると驚きの別世界であった。みやげ物店、ねぎそば店、御食事処、これがあの時の大内宿なのか! 民家の屋根に昔の面影が残るが昔とは全く風景が違っている。
2年が経った大内宿は一部民家で改修が進んできたような気がする. 1974.07.21
一番に奥にある石碑(湯殿山)がある大きな民家
石碑(湯殿山)がある曲がり角にある民家.
民家の裏手
湯野上(現湯野上温泉)駅のC11 1974.07.21
雨上がりの朝の湯野上駅
湯野上温泉街を行く会津線
当時の小生にとって古民家と言えば砧や大蔵(世田谷ローカルで済みません)に残る農家位しか知らず、新聞で大内宿の記事を見た時には、まさに今すぐ飛んで行きたいほどの衝撃を受けました。なぜそこまで興奮したのかといえば、かの摂津鉄道の「蔵本村」が本当に出現したからと言えば良いでしょうか。
返信削除実際にはTMSに連載された摂津鉄道の記事はリアルタイムでは読んで無く、なぜか床屋の待合に置いてあった恐らく2年落ち位のTMSで偶然目にしたのでした。それはもう髪を切り終わってからもまた座って読み続けたほどの感銘を受けました。その直後位に大内宿の新聞報道があったのです(この辺の記憶の時系列性はかなり曖昧でありますが)。
とは言えまだ親から遠方への旅など簡単には許されない年齢です。それがあっさり叶ったのがSLブームのおかげ。撮影旅費を少しでも安くしたい先輩諸兄たちは、必死に子供好きの好青年を演じ、頑固な我が親を見事に懐柔してくれたのでした。もちろん、彼らの旅費もうちの親が出しました!大阪万博のあった夏休みの話です。
自分のコメントに追加コメントするのも何やらおかしいのですが、近頃は昔の蛍光灯の様にスイッチを入れてから思考が正常になるまで長いので、何卒ご勘弁下さいませ。
返信削除会津への夏旅は小生が小学生の時かの様な書き方になってしまっていましたが、実際は大学生の某交博メンバー2名ほどが、道中でも旅館でも高校受験の勉強の面倒をみますから、という話でOKになったのでありました。もちろん、道中勉強など全くするはずもないのですが、余計な勉強道具がやたら重かったことを思い出します。
Namikiさん
返信削除大内宿を初めて訪問されたのが大阪万博の年とのこと。この年(1970年)のNamikiさんはたぶん中学低学年くらいと推測しましたが中学3年生でしたか。よくぞ先輩に連れられてあちこち奥地へ撮りに行かれたものです。鉄道撮影旅行の活動が随分早熟だったのですね。私は遠出は大学生になってからでした。
TMSの摂津鉄道の連載はよく覚えています。1960年代の地方にはまだ茅葺屋根の民家があり国鉄SLが走る風景に茅葺屋根がよく似合いましたね。 多くのモデラーがそれを模型化したと思います。 あの頃は大内宿でなくてもいくらでも撮れたのになぜ茅葺屋根を撮っておかなかったのか痛恨の撮影対象の一つでした。 ミゼット、不細工な乗用車、ボンネットバス、商店街などあの時代の象徴全てに目をそらしてしまった私でした。 国鉄SLの写真で背景に茅葺屋根の集落が写っていたりすると衝撃を覚えることがありますが、衝撃は茅葺屋根の下に人々が生活していたからこそであると思います。
katsuさんこんにちは。
返信削除この旅行、中3ではなく中2の話でありました。さすがに高校受験の夏に1週間の旅行はその頃でも許されなかった様に思います。小生の父は特に熱心な鉄道マニアでは無かったのですが、新幹線の試運転体験をしたくて某会に入り、子供の頃から鉄っちゃんに囲まれる環境となりました。本当に先輩方には良くしてもらい幸せな青少年期でありましたが、一方で同級生とは感覚が全く合わなくなってしまいました。