2012年8月4日土曜日

日本の国づくりを支えてきた石灰石輸送列車

八高線を走るD51が牽く石灰石輸送列車を見たあの1960年代後半は一体どんな時代であったのか、
財団法人セメント協会の日本のセメントの需要の推移 を見ると、ちょうど「いざなぎ景気」「列島改造ブーム」でセメントの国内需要・生産が急激に伸びている時代であった。

日本セメント(旧浅野セメント)埼玉工場が日高市に新設されたのが昭和30年。私が見たあの頃の八高線の石灰石輸送列車は、セメント生産増大の真っただ中にあって国づくりの一翼を懸命に担っていた光景であったということに。セメント国内需要はさらに1990年まで、生産は1996年まで伸び続けた。

その後、1999年に石灰石輸送がトラック輸送に切替わるまで鉄道輸送の時代が続き、高麗川から日本セメント(現太平洋セメント)埼玉工場までの専用線が石灰石搬入と製品出荷に使われていた。
この時の専用線の廃線跡が今でも見ることができる。

川越線に乗って高麗川駅を大宮方面へ発車すると
左に八高線、右に川越線、そして中央に工場専用線跡が見える. 2012.07.31 

高麗川から日本セメント(現太平洋セメント)までの専用線については
H.kumaさんの「太平洋セメント埼玉工場専用線」に素晴らしいレポートがあります。
H.kumaさんの地図によれば高麗川駅からセメント工場までの専用線は下記青線のルートであった。

セメント工場専用線

日本センメントの巨大な煙突に向かって延びる専用線.  クリック拡大

この専用線でよく見掛けた96の貨物列車.  1966.08.05

高麗川 1967.02.03

八高線 東飯能-高麗川 1967.02.03
八高線 東飯能-高麗川 1967.02.03

八高線金子坂を下り高麗川へ向かう石灰石輸送列車.  東飯能-金子 1967.02.13
背後に飯能の街を見て復路の金子坂を登る. 東飯能-金子 1967.02.13

青梅鉄道、南武鉄道の時代にさかのぼると、昭和6年に青梅鉄道から南武鉄道の浜川崎までが繋がり、青梅の採掘場から川崎工業地帯の日本鋼管、浅野セメントまで石灰石の一貫輸送が可能になっている。
1970年の頃はED16が牽く石灰石列車は浜川崎まで10本/日、拝島からD51に換えて高麗川まで8本/日あったという。製鉄とセメントに必要な石灰石を運ぶために集結したED16については別の機会にアップしてみたい。

4 件のコメント:

  1. katsuさん、弊ページをご紹介頂きありがとうございます。
    あの専用線をかつては9600が行き来していたのですねぇ。
    工場の目立つ煙突はこのあたりではランドマーク、
    各地でお化け煙突と呼ばれているものがありましたが、
    ここのも地元ではそう言われていたようですね。

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  2. Kumaさんの沢山の廃線跡のレポートをよく楽しませてもらっています。
    当時私はこのセメント工場も八高線石灰石輸送もその背景を何も知らずに撮っていました。
    蒸機が走っていたので撮っていた、ただそれだけでした。
    蒸機であろうとディーゼル機であろうとトラック輸送であろうと
    その石灰石輸送の歴史を撮っておけば良かったなと思います。
    鉄道の楽しみ方は奥が深いですね。

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  3. ゆうちゃん2012年8月15日 18:40

    一連の八高線シーリーズ懐かしく拝見させていただきました。
    鉄道写真を撮り始めたころ八高線に何回か行きました。中学生には近くて良いところでした。
    行った場所も金子-東飯能-高麗川あたりが多く懐かしい場所です。
     katsuさんが回られた全国の鉄道での中でもkatsuさんと思い出を共有できる数少ない場所ですね。
     高尾臨のC58牽引は見ましたがD51牽引もあったのですね。

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  4. ゆうちゃんさん、コメントありがとうございました。
    高尾臨のD51牽引のご指摘ありがとうごさいました。
    高尾臨の節分列車はてっきりC58牽引と思い込み、写真の蒸機をよく確認もしなかったのですが、
    写真をよ~く見ればこの日はD51牽引でした。
    キャプションを訂正させてもらいます。
    先日は金子~高麗川間を乗って見ましたが金子坂を下った先東飯能にかけて大きく変わりましたね。
    あの頃のどかな風景は一変した感じがしたものです。

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