2012年8月22日水曜日

静まり返った別府港駅と機関区

別府鉄道の主たる使命は肥料工場の原料・製品の輸送であって、その後沿線の工場の原料・製品の輸送が増大し収益は貨物輸送が主体であった。山陽本線土山から引き返してきた列車は貨物の長大編成で客車は1両のみ、いかに貨物主体の鉄道であったかが分かる。

山陽本線の土山から戻ってきた 5号機+客車ハフ6+貨車多数. 別府港  1962.07.28 クリック拡大

ひと気がなく静まり返った別府港駅 1962.07.28
貨物線がこの先の別府港へ延びている.1964年までは海水浴団体列車が走っているのでこの頃(1962年)はまだ海水浴場があったということに.その後別府海岸が埋立てられ臨海工業地帯が造成され貨物量は更に増大してきた。


参考: 鉄道ピクトリアル1969年増刊「私鉄車両めぐり」 別府鉄道

4 件のコメント:

  1. 私が訪れたのは1965年(昭和40年)で
    5号機が動いていて6は同じ所に無火で
    いました。重量貨物が主で多量ならば
    蒸機の方が無理がきいて使いやすかった
    のでしょうか?2年前全線を歩きましたが
    周辺の変貌に驚きました。

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  2. 常夜燈さん、1964年11月にディーゼル機導入したものの、土山駅構内乗入れ認可が1966年4月で、
    土山線蒸機のディーゼル化が遅れたようです。
    別府鉄道はかなり後年まで5,6号機が見られたのが幸いでしたね。
    この辺りは一面田畑でしたが、今では関西の通勤圏で山陽電鉄沿線はかなり便が良いのでしょう。
    廃線跡を全線歩いての確認は昔との比較が楽しそうですね。

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  3. ゆうちゃん2012年8月23日 23:12

    長大編成なのに貫通制動が無いようですね。今では考えられませんね。

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  4. ゆうちゃんさん、確かに機関車にはエアーホースが着いていないですね。
    機関車だけの制動力でコントロールできたのは
    おおろかな時代と、かなりの低速であったせいなのでしょう。

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