2011年10月31日月曜日

下野電気鉄道と雨宮製板台枠台車2

雨宮の板台枠台車は「猫すき」さんのコメント情報から、この夏に東武博物館で台車現物を見て来ました。そしてこの台車を履いた下野電気鉄道のデハ103を、同形の花巻の電車でイメージしようとしたのですが、花巻電鉄で雨宮製板台枠台車を履いた電車は鉄道線デハ1~4の木造時代、これの姿変えた鋼体化3、4、そして軌道線にも同番号デハ1、3、4、5(馬面)がいて、これは書けば書くほど大混乱でやめました。

ややこしい話は省き、結論は下野電気鉄道デハ103と同形の花巻の軽便電車は、鉄道線のデハ1~4の木造時代ということに。残されていた同形車体のサハの廃車体から下野の電車をイメージしました。

下野電気鉄道デハ103号の台車 東武博物館の解説を更に続けると
1939(昭和14)年になって、日本鉄道自動車工場(株)が台車を買取り、これを使用して銚子電鉄初のボギー電車ボデハ101(後のデハ101)号が誕生しました。1999(平成11)年3月に廃車になり保管されていたので、貴重な台車として当館に保存しました。片方の台車は上毛電気鉄道に引き取られ保存されています。また同種の台車は、花巻電鉄(昭和47年廃止)でも使用されていました。

銚子電鉄デハ101  1963.6.31
雨宮製板台枠台車 車輪径863mm 軸距1498mm  

数々の小型電車を製造してきた日鉄自動車は、この小型電車に下野電気鉄道の雨宮製板台枠台車を履かせた。花巻と同じ雨宮製板台枠台車は1067mmに改軌されていたもので、軸距1498mmは軽便並、銚子デハ101はこの頼りない足回りが魅力的であった。デハ101廃車後、東武博物館で下野電気鉄道デハ103の台車として展示されている。
元下野電気鉄道デハ103の雨宮製板台枠台車.  東武博物館 2011.7.28
 
厚さ12t くらいの鋼板を2枚張り合わせたメインプレートに補強アングルをリベット止している.今だったらアングル補強は溶接すると思うが当時は溶接歪の問題があったのでしょう。
模型でもこの台車なら自作できるだろうと16番花巻馬面電車を作った記憶があるが、鉄道模型趣味誌の製作記事でも当時の1/80軽便は何とゲージ16.5mmも許容してしまう大らかな時代であった。

2011年10月30日日曜日

下野電気鉄道と雨宮製板台枠台車1

秋晴れの昨日、東武鬼怒川線の車窓から見た新高徳の駅前はこんな風景であった。
この駅前広場に、かって矢板へ向かう東武矢板線のピーコックが牽く混合列車の風景があったわけだ。
鬼怒川線の「新高徳」という駅名には以前から特別なものを感じていたが現地を見るのは初めてであった。

東武鬼怒川線 新高徳駅前 2011.10.29

更に遡ると前身は下野電気鉄道で、当初は762mm軌間の鉄道で1929~30(昭4~5)年、1067mmへ
改軌後、1943(昭和18)年に東武鉄道に買収され、東武鬼怒川線と矢板線になっている。
下野電気鉄道と言えば思い浮かぶのが花巻電鉄の一隅に置いてあった雨宮製のサハ車体やデハの板台枠台車、そしてミニ凸電EB62である。こんな車両達がこの鬼怒川線の風景の中を走っていたことになる。


花巻の雨宮製デハ1~4(鉄道線用幅広)と同形態であったサハの車体. 花巻 1964.8.3

花巻電鉄デハの雨宮製板台枠台車
下野電気鉄道が軽便時代(軌間762mm)の1925(大正15)年に雨宮製作所で造ったデハ103は、
花巻電鉄のデハ1~4(鉄道線用幅広で木造時代)と同形車で、同じ雨宮製板台枠台車を履いていた。


花巻電鉄EB62   花巻 1964.8.3
このミニ凸電も下野電気鉄道が762mm軌間時代に日車に発注した2両のうちの1台あろうと推測される。(鉄ピク 私鉄車両めぐり 吉川文夫氏)

下野電気鉄道デハ103号の台車 東武博物館の解説より
下野電気鉄道のデハ103は当初762mm軌間の軽便電車でしたが、1929~30(昭和4~5)年、1,067mmへ改軌道後は、台車を改造して使用しました。しかし1931(昭和6)年2月架線電圧を550Vから1,500Vに昇圧したため、すぐに使用されなくなり、同電気鉄道の東武系列化後は、浅草工場に保管されていました。  とある。 
(続く)

1920(大9)年  下野軌道 新今市~新藤原間の開業
1922(大11)年  下野電気鉄道改名後に電化         
1924(大13)年  高徳~天頂間の支線開業(後の東武矢板線)
1930(昭5)年    1067mmへ改軌
1943(昭18)年   東武鉄道に買収

参考文献 中川浩一:著「軽便王国雨宮」丹沢新社. 鉄道ピクトリアル「地方私鉄めぐり」第9分冊

2011年10月28日金曜日

駿遠線 手づくりのDB60形機関車

駿遠線の蒙古の戦車については駿遠線の蒙古の戦車でDB601~609を紹介しましたが、転籍してきた606を除き他は自社製で、番号順に徐々にスタイルが仕上がってくるところが面白い。若い番号の無骨な産業用機関車風とは違ってDB607~609あたりは個性的な駿遠スタイルに仕上がってきて中々魅力的です。

中村修氏の「駿遠線物語」に書かれている「袋井工場の野武士たち」によれば、大した設備もない袋井工場では点検・整備や改造だけでなく客車、気動車、機関車の新車の製造まで行われ、DB60形機関車(601、602除く)はあのバラックのような袋井工場で製造されたとは驚きである。

DB60形機関車の製作で用意されたのは蒸機の下周りと自動車用エンジンとミッションのコンポーネントだけで、あとは腕の良い野武士たちで全て製作されたそうである。模型で言えば下回りとモータとギヤを元にあとは全自作ということに。
メーカの量産品ではなく図面も不要で現物合わせで作ってしまった機関車には、メーカ量産品にはないユーザ最適仕様に仕上げられた美しさがある。
図面がなくても現合でカタチは作れるが、動力系と性能や制動能力の安全基準クリアなど基本設計をした設計者がいたのでしょう。

新車の製造までできた袋井工場.  DB608が見える 1967.7.9

DB609 袋井
DB607 袋井

蒸機を流用した下周り.  DB607

DB607のキャブ内部

DB609のキャブ内部

2011年10月26日水曜日

終焉の駿遠線 袋井から新横須賀

全長64.6Kmの巨大軽便 駿遠線は一度や二度の訪問では済まず、5回に亘り部分的に訪問したが全線の乗車は果たせなかった。
1967年7月9日に5回目最後の訪問をした時は部分廃線が始まり、残された袋井~新三俣間も翌月には廃線で、袋井工場も閉鎖直前であった。見納めのこの時は袋井から新横須賀まで往復してみた。
この4年前(1963年)はこの線をDBが牽く列車が盛んに走っていたが、その後は湘南型キハの単調な風景になってしまった。この区間は全線に亘り平坦で平凡な風景であり、やはりDBが牽く列車でないと魅力がない。袋井に最後まで生き残った数両のDBは朝夕にでも走っていたのだろうか。

もう一度、駿遠線の終焉を整理してみると。

1963年4月4日  初めて駿遠線袋井を訪問。
1964年9月26日 大手~新藤枝 堀野新田~新三俣間 廃止 
1967年8月27日 袋井~新三俣廃止間 廃止 袋井工場閉鎖 DB601~609の全廃
1968年8月21日 大井川~堀野新田間 廃止
1970年7月31日 新藤枝~大井川間 廃止

荷物合造客車ハニ1が連結された列車. 新岡崎  1967.7.9
袋井←   新岡崎近く 石津 - 七軒町
袋井←   ダブルルーフ客車がご愛嬌. 新岡崎近く 石津 - 七軒町

田んぼの中の小さな駅 七軒町
袋井にいたデッキ付キハ5+ダブルルーフ客車がやってきた. 七軒町-新横須賀
新横須賀

駿遠線の沿線風景や駅はどこも似たり寄ったりで撮った場所の確定には毎度苦戦するもので、
こんな時に頼りになるが、阿形昭氏の写真集「写真でつづる静岡鉄道駿遠線」静岡新聞社発売元で、
ここに収録された全駅の写真と照合すればまず駅名は大抵確定できる。
今回は新岡崎の前後の撮影位置が確定できず新岡崎近くと表示してあります。

2011年10月25日火曜日

草軽電気鉄道


昨夜、古い写真が入手できたので早速アップして見ました。
九十九里と同様にその最後を見に行くかどうかさんざん迷い、結局行けなかった軽便の一つが草軽電鉄でした。手の出ない遠い昔の軽便とは違い最後の草軽は手の届くところにあったのに・・・。

写真は昭和33年、国鉄軽井沢駅前にある新軽井沢から草津温泉まで営業していた時代である。
この時代は国鉄駅前の新軽井沢には何もなく、1駅先の旧軽井沢に後に軽井沢銀座と呼ばれる中心部があり、この間をモハ100形が区間運転していたそうである。
5両いたモハ100も、この時既に3両が栃尾電鉄に移籍していた。
昭和33年の写真 撮影:実兄
区間運転のモハ100形   新軽井沢-旧軽井沢 1958(S33)年
新軽井沢駅構内のデキ 1958(S33)年
二度上 嬬恋のスイッチバック 1958(S33)年
駅員さんの長靴と学帽風が時代を感じさせてくれる.


栃尾線モハ208(元草軽電鉄モハ103) 上見附  1964.3.22

学校の隅に保存されていたデキ. 中軽井沢 1966.8.19


廃線後の新軽井沢駅  1963.7.21
草軽電鉄の新軽井沢駅がそのままバスターミナルに.1960年4月廃線の3年後で
「電車・バスのりば」の看板が「草軽バスのりば」へ書きかえられていた.

駅はバスの施設となり草軽の貨車の車体が残されていた.

2011年10月23日日曜日

駿遠線 袋井駅の佇まい2

最近、ポップアップのLightbox機能が更に改善されてきました。
ポップアップ(拡大)画像のみがLightbox画面に表示されるようになりスッキリしましたので
今まで控えていたポップアップ(拡大)画像を少しずつ増やしています。
特に表示しませんがマウスのポインターがに変わる画像のみが拡大します。
本ページでは拡大画像のみをLightbox画面にして3枚連続して見ることができます。

DB609  1967.7.9   袋井
DB607
袋井駅


DB607

2011年10月21日金曜日

駿遠線 袋井駅の佇まい1

袋井~新三俣間が廃線される直前の袋井駅は蒙古の戦車DBが居るいつもの光景であった。
袋井線側に残されたカタチ良いDBは最後まで活躍していた。

袋井 1967.7.9    拡大画像

軽便客車と子供達   拡大画像

 

デッキ付のキハ5
 
ハ9

ハ28

袋井を出発するとカーブし袋井工場の脇を通り田んぼの中を一直線に進む.拡大画像

2011年10月19日水曜日

寄居から丹荘へ

上武鉄道へ向かう時に通った寄居と丹荘の風景に戻ってみます。
当時は気にも留めなかった寄居の光景も今みると昭和37年を感じさせる。

東上線のクハ246 寄居 1962.12.23      拡大画像
池袋で乗った寄居行き準急はこんな電車であった。先頭を除く3両の凄い電車がとても気になる。
ホームの看板には東京へ準急98分とある。

いくらでも撮れた八高線のC58の貨物列車. 寄居  拡大画像
  
秩父鉄道の電機ED38 3号機.  寄居   拡大画像

何もない上武鉄道丹荘の駅.ここから西武化学工場前まで走っていた。
ポツンと置かれたハフ2(元川越鉄道の古典客車改造)

2011年10月18日火曜日

上武鉄道 英国系蒸機

英国系の蒸機は1886年製などとんでもなく古い古典機が夕陽を浴びて休み、
格調高い英国紳士を思わせる風貌を北関東の工場内に見ることができた。

1891年英国ダブス社製の8号機(後に3号)  西武化学工場内 1962.12.23

1902年英国ナスミス・ウィルソン社製の6号機

休車の1896年英国ナスミス・ウィルソン社製の5号機

1886年英国ナスミス・ウィルソン社製の4号機

番外は工場の外れに休車になって置いてあった元飯山鉄道の日車製3号機.
同系機が別府鉄道に在籍していた.

2011年10月16日日曜日

上武鉄道 アメリカン蒸機

上武鉄道に居た6両の蒸機を紹介してみます。
まずは再三取上げている1897年ピッツバーグ社製のアメリカン7号機。
こんな古典機が北関東でアメリカン独特の美しい姿で煙を吐いていた。
池袋から東上線で寄居まで行き、八高線で少し先の丹荘で降りると西武化学までたった6.1Kmを走っていた上武鉄道があった。日帰りでこんな古典蒸機が撮れたあの日の事が思い出される。

西武化学前  1962.12.23



東武熊谷線でリンクさせて戴いたlodgershinmeishrineさんのYou-tubeで 寿都鉄道8100形
が素晴らしいです。ボールドウィン蒸機の動きのバックに流れるブルーグラス音楽を聞き
ながら動画を見ているとこれぞアメリカン! 最高です。