こんばんは、久方ぶりに書き込まさせて頂いております。下津井へは、今年5月のGWに井笠鉄道旧矢掛駅と旧新山駅の資料館それと鞆の浦を訪れた後に訪ねましたがご存知の通り、今では自転車道になった線路敷と各駅のホーム下津井駅跡にいる車両群が現役時代を伝えるかの様に残っていましたが部分廃線後の撤去作業用に来た井笠のホジが登場当時の塗装に戻す作業の途上である所に出会うとは思いもしませんでした今頃は当時の色に戻っているかもしれませんね。多くの諸先輩皆様が撮られた写真を見る度に願わくばその時代を覗いてみたかった、と感じます・・・。
日本の法律では「保存鉄道」という概念がなかったこともあるでしょうね。また下電の児島駅(新)の場所が中途半端すぎました。せめてJRと接続していれば、もうちょっと異なった局面が見えたように思われます。下電の廃止前の販売されていた切符とかあったんですが、うちの親父が実家を改築するときに全部捨ててしまって、トホホですわ。新潟交通やら蒲原鉄道のもあったので、泣くに泣けません。
下津井電鉄は乗りたかったのに廃止に間に合わず後悔を残してしまった鉄道です。かなり後まで廃線跡がそのまま放置されていてレールの残る藪の中を下津井まで歩いた記憶が。遊歩道化された今でも架線柱が残してあるのは好感が持てます。児島駅の位置はあまり問題ではないでしょう。瀬戸大橋開通でバス部門が傾いて鉄道部門を支えきれなくなったのが廃止原因なので、もし移設されていたとしても名鉄美濃町線の新関~関間と同じ結果になったものと思われます。瀬戸大橋が児島を経由しなかった、または存在しなければ丸亀航路共々もう少し延命できていたかもしれませんが。ただこの場合は観光鉄道としてのテコ入れもなかったので、直後のバブル崩壊か2008年のリーマンショックといった経済不況の煽りを食らっていたと思われます。施設と車両の老朽化は旧近鉄ナローよりも深刻で、頼みの綱の四国連絡も2009年の高速千円政策で丸亀航路が廃止になっていた可能性は高い。どのみち現在まで存続してはいないでしょう。90年代以降の経済情勢の変化は下津井電鉄のような中小私鉄にはあまりに過酷で、好景気に支えられ発展してきた日本の一番のピークにその使命を終えたのはむしろ幸運だったと言えるかもしれません。
吉野直也さん今の下津井駅のことはよく知りませんが、ここでも車両復元の様々な活動が行われているようですね。廃線後、次々に潰してスクラップにしていた時代の遺産を、今、引き継いで活動しているボランティアの方々には頭が下がります。昔はこんな軽便鉄道の遺産を保存するなんて意識は全く無かったと思います。鉄道遺産と言えばすべて国鉄ものですからね。
ねこあたまさん、置き猫さん下津井電鉄の終焉は観光鉄道の夢物語?? 児島~下津井間の客輸送ではなく、あれは観光バスと連動した乗って楽しむ国内では珍しい本格的な観光軽便だったのですね。鷲羽山駅にメルヘン電車から団体客がどっと降りてきた時代が観光鉄道を物語っていました。大橋開通前日に見た鉄道施設や車両に何でここまで投資するのか理解できませんでした。とても鉄道ファンには見るに堪えない鉄道でしたが、下津井駅にあった温室のような喫茶店で音楽を聴きながら営業している軽便車両を眺めることが体験できたのは幸運でした。こんな夢物語が、もしこれからできるとしたら北勢線くらいでしょうか。
北勢線といえば下津井電鉄のメリーベル号を譲渡して走らせようとした構想もあったそうです。架線電圧が下津井600V北勢線750Vとなり昇圧改造が必要な点、廃車からかなりの年月が経ち車両そのものの老朽化が進んでいる点、費用捻出が難しい点がネックとなっているとか。実現したら素晴らしいのですがあくまで夢物語のようで、本気で調査検討したわけではないみたいなんですよね。そもそもあんな路線でオープン電車走らせてどうする?という疑念も。(^^;)
置き猫さん北勢線にそんな話があったのですか・・。下津井のオープン電車は北勢線に全く似合いませんね。下津井電鉄は駅施設も含め全てが集客のための遊園地化でした。ほんとうの夢物語は観光バス団体客とは無縁な、動態保存の車両や鉄道をしっかり楽しめる地味なものなんでしょう。
観光鉄道化しようとしたとことに、バブルが崩壊したというのが大きかったようですね。
ねこあたまさん崩壊はいろんな要因が重なって、その一つにバブルがあったのでしょう。もし、バブルが無かったとしても、大橋開通後に崩壊を迎えたと思われます。
こんばんは、久方ぶりに書き込まさせて頂いております。
返信削除下津井へは、今年5月のGWに井笠鉄道旧矢掛駅と旧新山駅の資料館
それと鞆の浦を訪れた後に訪ねましたが
ご存知の通り、今では自転車道になった線路敷と各駅のホーム
下津井駅跡にいる車両群が現役時代を伝えるかの様に残っていましたが
部分廃線後の撤去作業用に来た井笠のホジが
登場当時の塗装に戻す作業の途上である所に出会うとは思いもしませんでした
今頃は当時の色に戻っているかもしれませんね。
多くの諸先輩皆様が撮られた写真を見る度に
願わくばその時代を覗いてみたかった、と感じます・・・。
日本の法律では「保存鉄道」という概念がなかったこともあるでしょうね。
返信削除また下電の児島駅(新)の場所が中途半端すぎました。
せめてJRと接続していれば、もうちょっと異なった局面が見えたように
思われます。
下電の廃止前の販売されていた切符とかあったんですが、うちの親父が
実家を改築するときに全部捨ててしまって、トホホですわ。
新潟交通やら蒲原鉄道のもあったので、泣くに泣けません。
下津井電鉄は乗りたかったのに廃止に間に合わず後悔を残してしまった鉄道です。かなり
返信削除後まで廃線跡がそのまま放置されていてレールの残る藪の中を下津井まで歩いた記憶が。
遊歩道化された今でも架線柱が残してあるのは好感が持てます。
児島駅の位置はあまり問題ではないでしょう。瀬戸大橋開通でバス部門が傾いて鉄道部門を
支えきれなくなったのが廃止原因なので、もし移設されていたとしても名鉄美濃町線の
新関~関間と同じ結果になったものと思われます。瀬戸大橋が児島を経由しなかった、
または存在しなければ丸亀航路共々もう少し延命できていたかもしれませんが。
ただこの場合は観光鉄道としてのテコ入れもなかったので、直後のバブル崩壊か2008年の
リーマンショックといった経済不況の煽りを食らっていたと思われます。施設と車両の
老朽化は旧近鉄ナローよりも深刻で、頼みの綱の四国連絡も2009年の高速千円政策で丸亀
航路が廃止になっていた可能性は高い。
どのみち現在まで存続してはいないでしょう。90年代以降の経済情勢の変化は下津井電鉄の
ような中小私鉄にはあまりに過酷で、好景気に支えられ発展してきた日本の一番のピークに
その使命を終えたのはむしろ幸運だったと言えるかもしれません。
吉野直也さん
返信削除今の下津井駅のことはよく知りませんが、ここでも車両復元の様々な活動が行われているようですね。
廃線後、次々に潰してスクラップにしていた時代の遺産を、今、引き継いで活動しているボランティアの方々には頭が下がります。昔はこんな軽便鉄道の遺産を保存するなんて意識は全く無かったと思います。鉄道遺産と言えばすべて国鉄ものですからね。
ねこあたまさん、置き猫さん
返信削除下津井電鉄の終焉は観光鉄道の夢物語??
児島~下津井間の客輸送ではなく、あれは観光バスと連動した乗って楽しむ国内では珍しい本格的な観光軽便だったのですね。鷲羽山駅にメルヘン電車から団体客がどっと降りてきた時代が観光鉄道を物語っていました。
大橋開通前日に見た鉄道施設や車両に何でここまで投資するのか理解できませんでした。とても鉄道ファンには見るに堪えない鉄道でしたが、下津井駅にあった温室のような喫茶店で音楽を聴きながら営業している軽便車両を眺めることが体験できたのは幸運でした。こんな夢物語が、もしこれからできるとしたら北勢線くらいでしょうか。
北勢線といえば下津井電鉄のメリーベル号を譲渡して走らせようとした構想もあったそうです。
返信削除架線電圧が下津井600V北勢線750Vとなり昇圧改造が必要な点、廃車からかなりの年月が経ち
車両そのものの老朽化が進んでいる点、費用捻出が難しい点がネックとなっているとか。
実現したら素晴らしいのですがあくまで夢物語のようで、本気で調査検討したわけでは
ないみたいなんですよね。
そもそもあんな路線でオープン電車走らせてどうする?という疑念も。(^^;)
置き猫さん
返信削除北勢線にそんな話があったのですか・・。
下津井のオープン電車は北勢線に全く似合いませんね。
下津井電鉄は駅施設も含め全てが集客のための遊園地化でした。
ほんとうの夢物語は観光バス団体客とは無縁な、
動態保存の車両や鉄道をしっかり楽しめる地味なものなんでしょう。
観光鉄道化しようとしたとことに、バブルが崩壊したというのが大きかったようですね。
返信削除ねこあたまさん
返信削除崩壊はいろんな要因が重なって、その一つにバブルがあったのでしょう。
もし、バブルが無かったとしても、大橋開通後に崩壊を迎えたと思われます。