1963(昭和38)年の駿遠線の隆盛が僅か4年後1967(昭和42)年には衰退を迎え、この変わり目はちょうど東京オリンピック1964開催を境に日本が変貌して行く時代でもあった。
駿遠線訪問日メモ
1.1963(昭和38)年4月4日訪問1 初めての訪問 袋井側/ 諸井
2.1964(昭和39)年3月25日訪問2 袋井駅と新藤枝駅
1964(昭和39)年9月26日 大手~新藤枝 堀野新田~新三俣間 廃止
1.1963(昭和38)年4月4日訪問1 初めての訪問 袋井側/ 諸井
2.1964(昭和39)年3月25日訪問2 袋井駅と新藤枝駅
1964(昭和39)年9月26日 大手~新藤枝 堀野新田~新三俣間 廃止
3.1964(昭和39)年11月1日訪問3 袋井側/ 芝
4.1966(昭和41)年9月23日訪問4 地頭方~大井川
5.1967(昭和42)年7月9日訪問5 最後の訪問 藤枝側/大井川と袋井側/新横須賀
1967(昭和42)年8月27日 袋井~新三俣廃止間 廃止 袋井工場閉鎖 DB601~609の全廃
4.1966(昭和41)年9月23日訪問4 地頭方~大井川
5.1967(昭和42)年7月9日訪問5 最後の訪問 藤枝側/大井川と袋井側/新横須賀
1967(昭和42)年8月27日 袋井~新三俣廃止間 廃止 袋井工場閉鎖 DB601~609の全廃
Tomixのフリーランス軽便模型が、かなりの部分駿遠線をモチーフにしているせいか
返信削除駿遠線が再び脚光を浴びそうな気がします。
新藤枝はマンションに、袋井新は駅南ロータリーに変わってしまいましたが。
ねこあたまさん
返信削除Tomixの1/80 9mmナロー模型が余りにも矢継ぎ早に発売されるのに驚きました。
駿遠ネタは切りなくあるので続々発売されるかも知れません。
実物路線をモチーフにしているので、決して正確なスケールは求めない、
このシリーズの楽しみ方は上からだけ眺めて下回りは無視するそんなことかも知れません。
このシリーズは余分に買って1セットを動力、下回、カプラーなど全て作り直すのも面白いと思います。
昔相良町史を見たところ、戦後すぐと昭和30年代の御前崎港拡充期に改軌計画があったようなんですね。もしこれが実現をしていたら軽便ではなくなったかもしれませんが、鉄道としては残存をしていたかもしれません。
返信削除袋井側も、軽便とは外れますが、通称「森の石松電車」の終点のバスターミナルがいかにも元駅を改造したバスターミナルだったり、駅前商店街が未だに残っていて、残滓をしのぶものがあります。
美しいですね
返信削除やはりブレーキ管が連結部に見当たりません
ほんとにブレーキどうしてたのでしょう?
満員のときちゃんと停まったとでしょうか?
気になってしかたないです☺
ねこあたまさん
返信削除もし駿遠線が改軌されていたら、を想像して心象鉄道を模型で作ったら面白いと思います。
奥山線も、もし改軌されていたらが話題になることがあります。
どちらの軽便もその後の都市郊外の人口増大で、改軌されていれば存続できたかも知れませんね。
匿名さん
返信削除模型で軽便をつくるならば美しい下回りがポイントになると思います。
となると、縮尺はやはり1/45 1/48になるのでしょう。
やあ、懐かしいです。ほぼ同じアングルで駿遠線の写真を撮りました。
返信削除https://www.youtube.com/watch?v=CFq7p4O2-J4
まだ、全線がつながっていた時期です。写真には残っていませんが、
大井川を渡る心細い線路の上でハラハラした記憶があります。
lodgershinmeishrine さん
返信削除拝見しました。藤枝の東海道線オーバークロスで確かに同じところで撮っていますね。
この後、私は東海道線で袋井へ向かい袋井側を撮ってこれが最後の駿遠線となりました。
駿遠線を思い返すと、可愛い軽便でありなが36ゲージ零細路線よりしっかりしたところが各所にあり、不思議な路線であったと思います。今のクルマ社会では到底考えられない軽便輸送が当たり前に存在していた時代だったのですね。
懐かしの駿遠線の末期の画像をありがとうございました。コメントにありましたブレーキ管は、駿遠線では直通ブレーキがありませんでしたので、空気管であるブレーキ管は装備されておりませんでした。列車は動力車のブレーキ力だけで減速・停止をしていたのです。これは比較的平坦であった駿遠線ならではでしたが、下り勾配などでブレーキ力が不足する場合は、車掌さんが列車後部の手動ブレーキを併用して補っていました。このような乗務員同士の阿吽の呼吸で、軽便列車の安全運行が確保されていたのです。
返信削除また駿遠線の末期に見られた太いレールは、静岡鉄道の本線ともいえる静岡清水線からの中古レールでした。これは主に30kg/mで、本線を37kg/m化した際の派生品でした。ところが従来の15kg/mや22kg/mとは太さや高さが合わず、現場作業員の方々は苦労されたそうです。具体的に接続箇所では、枕木を掘り下げて高さを確保し、太さはボンド板(レール接続板)を折曲げて調整するなどしていたそうです。おかげで軽便鉄道ながらも乗り心地が改善されましたが、それは思ったほど長くは続かなかったそうです。
いずれにしましても、現場の職員の皆様はこのちっぽけな軽便鉄道である駿遠線を、最後の最後まで大切に運行しておられました。たとえば駅のトイレなどもきちんと綺麗に清掃されており、それは最後の日まで変ることはありませんでした。そのような駿遠線の、このたびの貴重な記事のアップを、心より感謝御礼申し上げます。
匿名さん
返信削除車掌がブレーキを掛ける件、中村修さんの駿遠線物語でも読みました。
この本で紹介された数多くの駿遠線の逸話は大変に愉快です。
レールは30kg/mでしたか。
やはり何もかもが大軽便の誇りがあってしっかりしていたのでしょう。
生活とともにあった駿遠線が消えるときは沿線住民の悲しみは大変だったようですね。
この時に心配された将来の高齢化の足の問題が今やあちこちで起きていますね。