tag:blogger.com,1999:blog-4604897916486738545.post8343128886424727453..comments2024-03-24T21:36:50.201+09:00Comments on 地方私鉄 1960年代の回想: 旧東海道を行く木造ポール電車4 物置小屋のような駅katsuhttp://www.blogger.com/profile/03959477113313491581noreply@blogger.comBlogger4125tag:blogger.com,1999:blog-4604897916486738545.post-54609385689451333762017-03-15T14:17:47.433+09:002017-03-15T14:17:47.433+09:00匿名さん
秋葉線の情報ありがとうございました。
いいですね秋葉線、昭和38年春に初めて駿遠線袋井を訪...匿名さん<br />秋葉線の情報ありがとうございました。<br />いいですね秋葉線、昭和38年春に初めて駿遠線袋井を訪問した時は秋葉線は前年秋に廃止になっていました。<br />奇想天外な電車と客車が走る私にとって究極のトロリーラインは秋保線と秋葉線でした。<br />もし秋葉線の車体が復元されたなら廃線跡めぐりを絶対やってみたい。<br />観光資源として廃線跡探訪にダルマ車体を活用してもらいたいものです。<br /><br />katsuhttps://www.blogger.com/profile/03959477113313491581noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-4604897916486738545.post-38570903548851717872017-03-15T09:00:57.544+09:002017-03-15T09:00:57.544+09:00リニューアルへの感謝から、ある木造電車のダルマ情報です。静岡鉄道秋葉線の車体が、袋井市内のある倉庫で...リニューアルへの感謝から、ある木造電車のダルマ情報です。静岡鉄道秋葉線の車体が、袋井市内のある倉庫で眠っています。これは同線廃止時に、某自動車工場に車体だけ引取られたものです。同工場では長年、従業員の休憩所として使用して来ましたが、これが不要となり袋井市に寄贈されました。これにより同市で、下回りとなる2軸台車の寄贈を募ったところ、これが京都市から寄せられました(ただしモーター無し)。これにより電車の上下が揃ったことになりますが、現在は倉庫の高さの問題から、車体と台車は別々に保存されています。<br />ちなみに秋葉線の特徴であった、バッファー・リンク式連結器は、片側だけにしかありません。これは車体をトラック輸送する際、狭い交差点で建物にぶつかる恐れがあったため、荷台後部となる側を取外した為です。これはおそらく、樹脂複製品等により復元できると思われます。また屋根上もスッキリとしてしまっています。<br />袋井市では予算と場所さえあれば、同車両の復元展示を考えています。もしそうなれば、あの東武鉄道の伊香保軌道線のように、廃線跡探訪ブームと共に観光資源としての活用が期待されます。このように全国各地には、思いがけないダルマ車両が、まだまだ密かに眠っているかもしれません。鉄道ファンにとっては、夢の大きな話です。これからも「地方私鉄1960年代の回想」を応援しますので、何とぞよろしくお願い致します。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-4604897916486738545.post-59971100158685845522017-03-14T16:43:58.444+09:002017-03-14T16:43:58.444+09:00匿名さん
つたないメモで失礼しました。
沼津駅の物置小屋を撮っておけば良かったのに、沼津できっとフィ...匿名さん<br />つたないメモで失礼しました。<br />沼津駅の物置小屋を撮っておけば良かったのに、沼津できっとフィルムを使い切ってしまったのでしょう。<br />私が見た時も沼津駅にとり残された電車は撤去されたあとでした。<br />大場工場にあったダルマ3体は初め興味なかったのですが、川向う沼津駅にとり残された3両と知って俄然興味が湧いてきました。台車を外され沼津から大場までの輸送にいろんな物語があったのでしょうね。<br /><br />昭和42年大場車庫?の写真にモハ205の車体が写っていました。<br />廃線後、木造ポール電車がどういう最後を迎えたのか知りたいものです。<br />katsuhttps://www.blogger.com/profile/03959477113313491581noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-4604897916486738545.post-33654307540149858532017-03-14T09:55:32.041+09:002017-03-14T09:55:32.041+09:00またも懐かしくも貴重な記事をありがとうございました。このような手書のメモが、後の世?では貴重な第一級...またも懐かしくも貴重な記事をありがとうございました。このような手書のメモが、後の世?では貴重な第一級資料になる事と思います。これらを公開していただきました事に、心より御礼を申し上げます。<br />これを見ますと、私が幼少時に軌道線の線路を歩いたのは、取り残された電車を撤去した後のことだったようです。また大場車庫にあった電車3両がダルマ状態だったのは、おそらくトラック輸送のために、台車と車体を現場で分離した為のようです。本来ならば現場からの撤去輸送後、台車と車体を一緒に戻すのですが、廃車目的のため省略されたのではないでしょうか。そうなれば取り残された3両の末路に、納得ができるように思います。<br />ちなみに台車と車体を分離したのは、トラック積にした時の高さの問題だったようです。当時は現在のように、歩道橋や立体交差などの障害物はありませんでしたが、トラック自体が今よりも小型だったので、重量とバランスによる「止むを得ない」措置だったのではないでしょうか。<br />いずれにしましても、オンボロに思えた軌道線の木造電車も、思ったより手入が行き届いていたようです。さらに、長い間広大な大場車庫の片隅に廃車体が止め置かれていた事実は、現場社員にこの軌道線が深く愛されていたからかもしれません。今でも伊豆箱根鉄道では、車両を大切に使用しています。その良き伝統のルーツを垣間見たような気がいたします。このたびもまた、貴重なリニューアル記事をありがとうございました。Anonymousnoreply@blogger.com