案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2019年7月4日木曜日

小海線から上田丸子電鉄別所線へ

真田傍陽線を撮ってからこの日の宿は夏休みピークでどこも満杯、夜8時過ぎに何もない小海線中込の駅前宿に落着く(素泊り一泊1000円)。浴衣に着替えて駅前でやっていた盆踊りを見学。

 翌日は小海線のC56撮影に一日掛けたものの本数少なくて走行写真の成果はこの1枚くらい。その1枚もC56の煙はちょろっとだけ。SLはその道に任せて中半端なことはやらない方が良い。もし別所線に一日掛けていれば大変な収穫があったのに惜しいことをしてしまった。

小海線のC56「八ヶ岳高原号」。 野辺山 - 清里 1970.8.16
この時代の清里は若い女性同士のグループで一杯であった。
野辺山発14時35分の「八ヶ岳高原号」に乗って夜行日帰りのハイカーたちは東京に帰る。

車窓の信濃川上



朝の下り「八ヶ岳高原号」が野辺山に到着。
客車を野辺山駅上り線に移動し午後の上り「八ヶ岳高原号」を準備中。
 野辺山駅の上り「八ヶ岳高原号」 1970.8.16

八ヶ岳高原号が走ったのはどんな時代だったのか。
名取さんのブログ編集長敬白からの一節↓

上り8436レ「八ヶ岳高原号」の野辺山発は14時35分(1970年)。現代的感覚からすればずいぶん慌ただしい設定ですが、これでも新宿帰着は21時26分。冷房さえない満員の旧型客車に揺られての夜行日帰りハイキング、それがあの頃のレジャーの姿だったのです。1972(昭和47)年、「八ヶ岳高原号」は小海線無煙化とともに急行「八ヶ岳51号」に格上げされましたが、DD16牽引に変わった同列車が注目を浴びることは二度と再びありませんでした。

小海線の名所 清里 - 野辺山  1970.8.16

朝の「八ヶ岳高原号」 1971.08.15
翌年に再びこの撮影ポイントに来たが八ヶ岳の山並みは現れなかった。そうか「八ヶ岳高原号」はこの翌年72年が最後でしたか。

小海線を終えると小諸経由でさあ東京へ帰ろうと乗った気動車が長野行で、急遽予定変更し長野電鉄を撮りに屋代の駅前旅館に泊まった。翌日は昼まで長野電鉄を撮ってまた上田に舞い戻って上田丸子電鉄別所線の撮影となった。

4 件のコメント:

にぶろく さんのコメント...

旧客ながら10系を2両使っているあたりに
多少、国鉄の配慮もうかがえます(笑)
でもあれだけの人気列車なので
普通は12系を投入しますよね。
併結する急行編成との関係でしょうか

katsu さんのコメント...

にぶろくさん
71年の小海発のC56上野行は旧型客車を牽いていました。
その翌日の新宿発のC56野辺山行(写真の境川鉄橋)は新しい客車でした。
どちらも併結する急行から決まると推定されますが正確なことは知りません。

hmd さんのコメント...

うちの世代では、もはや、伝説の高原号ですが・・・。
現地でフラリと往く先を変える旅も、また、一興かと思います。
屋代線ですか。あまり、廃線間際には行かない方針ですが、最後の秋に訪問しています。
貴重な木造駅舎や昭和の雰囲気もよく残っていたので、惜しいところです。

katsu さんのコメント...

hmdさん
私も廃線間際に屋代線を2回訪問しました。
駅舎が素晴らしいですね、松代の駅などは特に惜しいです。
元営団地下鉄なんか撮るまい・・と長いこと思っていたのですが、
長野電鉄によく馴染んでいて懸命に撮りました。
都落ちの電車も次第に抵抗が無くなってくるのは時が経つせいなんでしょう。