案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2018年3月7日水曜日

昭和39年11月1日のこと

昭和39年10月31日、遠鉄奥山線の最終日であった。その翌日11月1日に遠鉄浜松駅で廃線式が行われました。その日のことは→遠鉄奥山線 最後の日-3 
この日、廃線式が終わってから浜松城を見物し、東海道線で袋井に出て駿遠線訪問までを写真でたどってみました。

 立派な廃線式が挙行された奥山線。鉄ファンのカメラの放列などはまだ無かった時代。
 遠鉄浜松駅。1964.11.01

式典が終わり奥山線も見納め。最後に軽便の大きなパンタグラフを撮ったが、今になってみるとパンタよりも背後の家並みに目が行く。

この日は日曜日、浜松城も人が多かった。

 奥山線の撮影を終えて初めて浜松の城見物へ。

浜松城から奥山線元城駅(車庫)が近く、駅の電車が小さく見える。

天主閣から見た体育館、公園、学校などがある浜松の街。カメラをどちらへ向けたか分からないが、この頃の浜松は高い建物が皆無であった。

東海道線の浜松駅。この1ヵ月前に東海道新幹線が開通している。浜松の街中にはアドバルーンが挙がっていた。

駿遠線が発車していた東海道線袋井駅に向かった。この頃、駿遠線も少しずつ終焉に向かっていた。
諸井あたりの茶畑を行く駿遠線。

12 件のコメント:

Cedar さんのコメント...

小学区の5年のときに浜松からの転校生がいて、浜松の家が元城駅近くだったのです。そのころは父の購読していた鉄道雑誌で奥山線のことを知っていたので、根堀葉堀聞いて訝られたのを覚えています。家の近くにトンネルがあった、とか教えてくれました。

にぶろく さんのコメント...

尾小屋のキハ3(キハ1803)は
この時に移籍したんですね

katsu さんのコメント...

Cedarさん
浜松は住んでみたくなるような都市で、今もその魅力は変わらないでしょう。
ちょうど、本城の車庫を取り上げようと思っていたところです。
元城の車庫は何回か訪問したのですが、写っていたのは車両ばかりで整理していませんでした。
駅は街の中心部だったような気がします。
この先に有名なトンネルがありましたが、私は車庫で採寸ばかりやっていてトンネルが撮れませんでした。
若かったあの昭和39年の思い出、なんとなく悲しくなります。

katsu さんのコメント...

にぶろくさん
この昭和39年の大晦日前日、尾小屋の車庫の奥にもうキハ1803が到着していました。
輸送で窓ガラスが割れた車体にブルーシートが掛けられていました。
このキハは今も保存され幸運な人生でしたね。
あの奥山線の電車や木造客車など、今や何にも残っていないのでしょう。

U-BOAT さんのコメント...

初めまして、いつも楽しく写真を鑑賞させていただいています。
私は平成16年から浜松に住んでいます。学生時代までは熱心な鉄道ファン(いわゆる乗り鉄)でしたが、最近はちょっと離れてしまっています。
浜松では奥山線は今でも愛されているようで、何年か置きに周辺の廃止路線(静鉄秋葉線、駿遠線、光明電気鉄道、堀之内軌道までも含めて)の特別展示会などが市博物館や周辺都市図書館などで行われています。
奥山線はいつまでもナローゲージで営業を続けたのがまずかったんでしょうね。西鹿島線のように無いお金を振り絞って1067ミリに改軌すれば浜松駅始発になって貨物取扱量なども増えたんだと思います。
地元に住んでいると、いろいろ知らなかった話も入手できます。奥山線では燃料事情が悪くてたびたび蒸気機関車が立ち往生したと伝えられますが、当時実際に乗車した人、運転した人の話だとそんな事は無かった言われています。
静鉄駿遠線の戦後開通区間は軍のトロッコ路線後を利用したと言われますが、実際は規格が違うのでかなりの部分作り直したとか、いつでも1067ミリに改軌できるように余裕を持たせた敷地になっていたそうです。ご存知だったらすみません。

ねこあたま さんのコメント...

上記の方も書いておられるようですが、奥山線のみならず駿遠線もサブロク化していれば
案外今でも、現存していたかもしれないです。
駿遠線に関しては、昭和の20年代ならびに、昭和40年代に御前崎港の貨物輸送のため
1067化計画が上がったようですが、いずれも頓挫してしまいました。
大体この県や自治体が、身銭を切って何かをしようという発想がないという気がします。

静岡空港の新幹線駅の調査費を相変わらず計上しているようで、利用人数の実績づ靴のために
公立高校への修学旅行の行先に、以前は中国・韓国、関係が悪化すると、台湾にするようにと
各学校に、強いご指導が入っているという話です。

浜松駅から見える比較的高いビルは、松菱百貨店のようですが、18年前に倒産して
今は更地になって、かなりの年数が経ちます。

伊豆之国 さんのコメント...

遠鉄奥山線が通っていたその跡の遊歩道を、十数年前に浜松城から「犀ヶ崖」の辺りまで歩いたことは前に書き込んだことがありますが、城址公園の入り口にある、ホテルが建っている「元城」駅跡の前にあったドーム型の体育館?の建物は、既に無くなっていました。
奥山線のあった沿線は、「小豆餅」の先辺りまではびっしり家が建て込んでおり、U-BOATさん、ねこあたまさん、お二方のおっゃる通り、せめて電化区間だけでも1067mmにゲージを広げていれば、今の西鹿島線と同様、80万都市に発展した浜松市街への通勤電車として大いに繁昌していただろうと惜しまれます。
駿遠線は、西側のほうは維持は難しかったのでしょうが、相良・榛原(現在は合併で牧之原市)から静岡市内へ高速バスが朝のラッシュには最短5分間隔で出ていることからみて、藤枝~相良間だけでもゲージを広げて電化もすれば結構にぎわったかもしれなかったのでしょうが、やはりあの大井川の華奢な橋を架け替えるだけのお金が出せず(それだけで駿遠線の6年分の収入分の費用がかかり、補修だけでも2年分の費用がかかるということを、昔鉄道J誌だったかで見た記憶がありました)会社そのものが吹っ飛ぶ危険が高かったことが最後まで命取りになったのでしょう。

みーくん さんのコメント...

初めまして。私は浜松の者ですがいつも奥山線や二俣線の記事を懐かしく鑑賞させていただいてます。
といいましても自分が生まれた頃は奥山線は廃線していましたが・・・。
浜松城の写真、下から見上げる感じがいいですね。当時は今と違い周りに高い建物がないから
威風堂々とみえていたと思います。
たぶん学校が映っている写真は元城小で、その右の建物は市役所です。
次の写真は現在は美術館がある南側の方かと思います。
当時は遊園地と動物園が狭い敷地内に一緒にあったので今より賑やかだったかと思います。
遊園地、動物園ともに舘山寺へ移転しましたが、お城がなんとなく寂しく感じます。

katsu さんのコメント...

U-BOATさん
初めまして。
奥山線が今でも愛されているようだとは、嬉しいですね。
いつでも1067ミリに改軌できるように余裕を持たせた敷地になっていたとは私は知りませんでした。
奥山線は改軌しなくとも四日市や桑名のようにナローの近代化を進めるのも一つの手であったと思います。
小さなナローも増結すれば輸送力は十分と思います。

katsu さんのコメント...

ねこあたまさん
奥山線や駿遠線をサブロク化していればとは、以前からよく出てくる話題ですね。
問題は伊豆乃国さんのコメントにあるように大井川に架ける橋でしょうね。

katsu さんのコメント...

伊豆乃国さん
新藤枝へ向かう朝の客車5両編成は実に見事でした。
これをそのままサブロクゲージに改軌すればの発想は当然だと思います。
しかし、あの大井川の存在が確かに致命的ですね。

katsu さんのコメント...

みーくんさん
初めまして。
当時は今と違い周りに高い建物がない。
これはどこの都市でも同じようで、東京も空が広かったです。

>たぶん学校が映っている写真は元城小で、その右の建物は市役所です。
>次の写真は現在は美術館がある南側の方かと思います。
ありがとうこざいます。
天守閣からの展望は、そうでしたか。
こうして地元の方から教えていただくと助かります。