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高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2016年8月21日日曜日

下津井電鉄 1枚の写真から 2

先日の1枚の写真、先頭クハ9の編成がとても貴重な写真です、クハ9に続く中間サハも気になります。
1963年に田辺さん、1962年に私が訪問した下津井電鉄の写真で元栗原電鉄のサハを探してみました。元栗原はサハ1、2そして少し長いサハ3の3両が在籍していたようです。

撮影: 1963.07.19 田辺氏、1962.07.29 katsu

 1963.07.19 茶屋町

上の写真を拡大してみるとクハ9+サハ1or2+モハ50系   

下津井の車庫に休むモハ102+サハ3(元栗原)+クハ  1963.07.19
翌年にモハ102+サハ3+クハ22の固定編成化の改造が行われた.

下津井の車庫風景 1963.07.19

モハ103+クハ24の向こうに見えるサハ3(元栗原)   1963.07.19

 モハ52+サハ1(元栗原)+クハ23  1962.07.29

電装解除されたサハ1(元栗原)  1962.07.29
元に戻したら素晴らしい電車になることでしょう.


モハ103+クハ24 下津井  1963.07.19
1961年に登場したモハ103+クハ24 茶屋町  1963.07.19
私はこの新鋭電車を全く無視してしまい1枚も撮らなかったが、田辺さんはこの電車を何枚も撮っていたのでお気に入りだったのだろう。茶屋町は軽便にしては立派な駅であった。

ナロー模型ではこんな元栗原や元単端のような異種中間車を組み合わせた箱もの編成の楽しみ方がありますね。
下津井のサハが栗原で軽便電車だった頃.


岡山駅の準急「鷲羽」1963.07.19 宇野線経由で宇野まで走っていた。
宇野線茶屋町で下津井電鉄に乗換えれば鷲羽山に行ける時代であった。


6 件のコメント:

ねこあたま さんのコメント...

小学校の時の修学旅行で岡山に行ったことがあります。
岡山から鷲羽山に向かう途中、道路に並行する怪しい幅の道路が並走するのが見えてきました。
これはなんかの廃線ではないかと思ってしばらく並走をして、駅が見えてきました。
児島駅と書いてありましたが、駅舎はともかくホームはなかなか立派なものだったと思いました。

下電が無くなって25年以上たつんですんでえ。

Cedar さんのコメント...

先日はありがとうございました。お話にでた『軽便や地方私鉄が輝いていたころ』の雰囲気が伝わってくるお写真ですね。
Cedarga最後に訪れたときはあまりの寂れた雰囲気に気持ちが暗くなって、そそくさと立ち去った記憶があります。

katsu さんのコメント...

ねこあたまさん
廃線跡が見えたということは茶屋町~児島間が廃止後ですね。
児島駅は区間廃止後の遊園地化で大きく変わりました。
私が見たのは瀬戸大橋開通時で、その頃の児島駅は駅舎もホームも立派でした。

katsu さんのコメント...

Cedarさん
こちらこそありがとうございました。
あの頃は海水客帰りや競艇場帰りのお客で軽便電車は満員でした。
まだ児島まで国鉄が開通してなくて下津井電鉄にとって良き時代でした。
私も最後に訪問した時は遊園地した光景に複雑な気分になったものです。
かろうじて面影が残っていた電車は富士カラー広告電車モハ103くらいだったか。
瀬戸大橋開通により、下津井港から四国に渡る丸亀航路ルートなんて吹っ飛んでしまったのでしょう。

#9999 さんのコメント...

モハ102を見て最初に浮かんだのは、栗原電鉄が改軌時に導入したM15形です。
モハ102の方はクラシックからモダンへの過渡期の面影が残っていますが、M15形でモダンなデザインを獲得した感があります。
両者とも同時期のナニワ工機製で、なにか因縁めいたものを感じ検索してみたところ、次の記述がありました。

ゲぺック・カステン様:http://retropc.net/yasuma/V2/RAIL/simotui-car.html

最後のサハ1~3の記述では、「宮城県で走っていた電車が遥か遠く離れた下津井入りしたきっかけ・・・」も興味深いものでした。

参考までにサハ1とサハ2の外観的な違いは殆ど有りませんが、譲渡後に設けられたドアステップに使用部材の違いがあるようです。茶屋町で撮影された中間車はサハ2と思われます。

katsu さんのコメント...

#9999さん
情報ありがとうございました。
このサイトをよく読んでみます。
茶屋町の中間車のサハ1or2は違いが判りませんでしたが、サハ2らしいですか。
とすればこの時、サハ1は前年同様にやはり両端デッキ付モハ50系に連結されていたことになりますね。