案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2010年12月31日金曜日

大晦日の金沢市内線

尾小屋鉄道を撮った後は金沢へ移動し、翌12月31日は金沢市内線と金沢周辺の北陸鉄道めぐりと大変な強行軍の一日であった。この日のことは5月12日に「大晦日の金沢市内線」をアップ済みであり、それ以外の画像を主にアップします。

便のよい駅前旅館に一泊。金沢駅前の風景。  1964.12.31

単車も活躍していた金沢駅前。

①系統の小立野行きモハ2200形と街の風景。

兼六園と金沢城の間の兼六坂を登る、⑤系統の単車モハ314。

兼六園下の分岐点。 橋場町⇔小立野

①系統のモハ2100形と街の風景。


近江町市場の買い物客で賑わう中心部「武蔵ケ辻」の大晦日。
④系統の野町行モハ2000形。(前回アップした画像の再調整です)


これにて今年の更新を終了致します。
「地方私鉄 1960年代の回想」をお読みいただき、ありがとうございました。
来年もよろしくお願いいたします。

2010年12月29日水曜日

尾小屋鉄道 新小松の車庫

小松の車庫を訪問すると、昨日お願いしてあった奥のSL 5号機を引き出して頂いた。
立山重工製の産業用タイプで軽便にしては巨大な蒸機だが、軽便唯一の現役蒸機で貴重な存在であった。車庫にはバスが同居し、次第にバス庫となって行ったのだろう。

夏場は車庫の奥だったが、冬場は外に出ていた5号機  
新小松 1964.12.30

冬季積雪時の除雪用として大きなスノープロウを装着した現役の軽便蒸機 5号機。  


5号機

キハ2で奥にあった5号機を引き出した。

車両(キハ1)とバスが同居している車庫構内。 

この日よく見かけたホハフ 5


2か月前に廃線となった遠州鉄道奥山線からやってきたキハ1803。
10月末まで現役であったが、廃線後2か月で無残な姿になっていた。
輸送中に傷んでしまったのだろう。

2010年12月28日火曜日

尾小屋鉄道 冬の日を浴びて

長原から更に歩き終点尾小屋に到着すると、あたり一面 気持ち良い朝日が差していた。
早朝から山間の霜の中を撮り歩いて冷え切った身体を、尾小屋駅の待合室で休養した。
朝の客車列車が撮れたので、後は新小松に戻るだけである。

朝日を浴びてキハ2単行が尾小屋に到着。これに乗り新小松へ引き返した。 1964.12.30

尾小屋で発車待ちのキハ2の車内に朝日が差し込む。

年も迫り、駅ごとに何やら荷物を積込んでいた。  倉谷口。


キハ2 上り列車は客車を牽いてなく、観音下あたりから込み合い
新小松に着く頃には大変な混雑となった。  観音下

西大野の交換風景

白銀の白山が見える田圃の中を、キハ2+単車ハフが尾小屋へ向かう。  新小松 - 西吉竹
昨日までのどんよりした北陸の曇り空から一変し、雲一つない快晴となった。
山から下りて来たDC122が牽く列車は、年末の買い物客?で賑わっていた。 新小松 - 西吉竹

2010年12月27日月曜日

尾小屋鉄道 寒村の朝

川沿いにある1つ目のトンネルを抜けた倉谷口で降り、
この先にある尾小屋寄りの2つ目のトンネルのところを狙った。
線路の横は崖っぷちで、反対側は山が迫っている。
霜で真っ白になった枯れ草の上で、先ほど乗って来たキハ1が戻って来るのを待つと、
デッキの大きいダブルルーフの客車ホハフ1を牽いてやってきた。


倉谷口 - 長原  1964.12.30

朝もだいぶ経っているに一向に日が差さず、遠くの木立だけが明るく輝いていた。日陰の山間には集落があり一面が霜で真っ白であった。やがてやって来た列車は渓流の木橋を渡り長原の駅に進入した。

明日は大晦日。寒村の朝は一面の霜。長原  
シャッターを押す手がしびれる。 終点の尾小屋まであと一駅。


長原を過ぎると、遠くに見える尾小屋方面は明るい日が差していた。 長原

2010年12月26日日曜日

尾小屋鉄道 朝の列車

前日に北陸本線の動橋から赤い電機に牽かれ2つ目の小松にやってきた。
国鉄の車窓から見えた尾小屋鉄道の車庫にはSL5号機が外に出ていた。
小松で今夜の宿を決める前に5号機に対面、雪さえ降ればいつでも出動できる態勢のようであった。
しかしこの年の北陸の平地に雪はなかった。

尾小屋鉄道新小松駅の踏切脇に古そうな安宿を見つけ、素泊まりに決めた。
外で夕食をとり宿に戻ると、沼尻の駅前旅館と同様にコタツの周りに4人の布団が敷いてあり、
心地よい足の暖かさと今日の疲れで直ぐに深い眠りについた。

翌12月30日、朝一番に乗るため5時半に起き、新小松駅に駆けつけた。
朝食も昼食も食料の持合せなく飛び出したが、尾小屋の沿線には食べるような店はなく、自動販売機もない。水分補給は駅や民家でなんとかなるが、食事は食べる時間さえなくこの日は夕食まで何も食べなかった。
朝1番が出る時間になっても、駅員はまだ寝ているのか切符も売ってなかった。
やがて、日の出前の暗い新小松駅を我々が乗ったキハ2の1番列車が発車した。
3つ目の遊園地前で下車し、三日月が浮かぶ星空の下、暗闇を歩き撮影ポイントを探した。
北陸の冬の日の出はえらい遅く、7時過ぎにようやく東の空が赤くなる頃、上り1番列車キハ1がやってきた。更に大杉谷の近くの鉄橋で、上り2番列車を狙う。
こうして終点尾小屋に次第に近づいて行った。



夕方暗くなる頃、下り列車が発車を待つ。新小松 1964.12.29
翌朝の朝一にこのキハ2の列車に乗った。


うす暗い夕方、下り列車が発車していく。  新小松 1964.12.29

翌朝の上り2番列車。通勤列車なのか客車を5両も牽いていた。大杉谷の鉄橋 1964.12.30
この客車5両の大編成はこの時間だけで、朝の冷え切った中を待った甲斐があった。

冷え切った観音下の駅。鉱石運搬索道が見える。 1964.12.30

観音下を行くキハ2+ハフ1。     後方に鉱石運搬索道の防護柵が見える。 1964.12.30
尾小屋に近づくにつれ枯れ草が次第に白くなり、底冷えがしてきた。

2010年12月24日金曜日

加賀温泉郷行きの電車 山中線

最後は加南線の主力、山中温泉行きの山中線です。
国鉄北陸本線の大聖寺駅でロマンスカー「しらさぎ」に乗り込んだ。

日本初のオールアルミ製6000系ロマンスカー「しらさぎ」が待ち受ける大聖寺駅。1964.12.29

しらさぎの車内。

終着駅山中に到着した「しらさぎ」クモハ6011 + クハ6061。
「くたに」の後 S38年7月に登場し、まだ1年半の新車。 

新型ロマンスカー「しらさぎ」の足回りは中古品流用であった。 山中

この年に浅野川線からて転入してきたクハ1602 + モハ3501。  山中

山中駅を降りると、山に囲まれた山中温泉街の年末光景が開けていた。

こうして加南線を終えると、その日の内に小松へ移動した。
次の日は尾小屋鉄道である。

2010年12月23日木曜日

加賀温泉郷行きの電車 山代~河南間

山代線の山代を発車して大聖寺川を渡ると河南駅に到着する。山代線と山中線は河南で接続する。この山代~河南間は山代と山中両温泉を結ぶ直通列車があったり、山代(車庫)へ行く電車があったりと、山中線の一部でもある感じであった。

大聖寺川を渡る河南行きのモハ1813。  河南 ⇔ 山代  1964.12.29

この年に金石線から転入してきたモハ3301+クハ1603が河南へ向かう。  河南 ⇔ 山代 

山代、山中、河南の位置関係は下記となります。

動橋からやってきた山代経由河南行きモハ1812が河南に到着する。
左へ直進が山中線大聖寺方面、山代線は右へカーブし山中線と別れる。


河南駅の山代線ホーム。山代線モハ1821の行先表示板は山中行となつている。
隣は山中線のロマンスカー「くたに」クモハ6001


山中から来た「くたに」は河南を発車し、右へカーブし山代車庫へ向った。 河南

山代から来たモハ1821は、河南で引き返さず山中線に入り山中へ向った。 
山代線⇔山中線直通運転。
地方でよく見かけたカネボウ化粧品の広告。ここではやたらと電柱に貼られていた。

加賀温泉郷行きの電車 山代

山代温泉がある山代線の山代へ電車で向かうには、北陸本線大聖寺で山中線に乗るか、動橋で山代線に乗るか、二つの入り方があった。山代駅では本数が多い河南行きに対し、反対側の新動橋行きは本数が少なく裏玄関のような感じであった。この山代駅に山中線/山代線の車庫があった。

山代駅全景  1964.12.29 

河南行2連と、新動橋から来た準急河南行単行が並んでいる。 ↖河南側
ホーム待合室の側面に消えかかった「山代温泉」の文字がうっすらと見える。


車庫がある山代駅。


山代駅と、駅前の温泉町商店街の風景。
どこの温泉場も団体旅行で栄えていた時代であった。
加賀温泉郷は関西方面からの奥座敷だったのだろう。


対称的な山代線のローカルな1810形と、山中線のロマンスカー「くたに」


モハ1820形 準急 新動橋行

登場後2年の山中線 ロマンスカー 「くたに」 クモハ6001+クハ6051

中空軸平行カルダンドライブ、転換クロスシート採用の最新鋭車。
温泉客輸送に活躍した美しいロマンスカーであった。

素晴らしい解放感


 電動貨車 モヤ503